「社会派」がヘゲモニーを握っていた日本基督教団
教団指導部は当時、反権力・反国家の思想を強く持つ「社会派」に牛耳られていた。教会を基点とした布教を重視し、イデオロギーと距離を置く「教会派」に対して、「社会派」の体制のもと「極左過激派の活動家らも教団に入り込んでいた」と教団関係者が回想した。
教団は42年、先の大戦時における政府協力を懺悔する「戦責告白」を発表。1970年大阪万博でのパビリオン「キリスト教館」出展を巡り、反米や反資本主義の立場からの「反万博」主張が教団内で勢いを増し、これが社会派と教会派の分裂を生み、社会派体制が続いた。
金井氏は80年代に牧師としての歩みを始めたが「学生時代も左翼思想に賛同するような言動は聞いたことがない」と、東神大でともに学んだ70代の男性牧師が振り返った。それから40年余り。あのときの同級生の面影と反基地の抗議船船長としての最期がまだ、うまく像を結ばずにいる。
「上がり」の教会で牧師生活を始めたが…
金井氏が最初に伝道を始めた日本基督教団の富士見町教会は明治20年に創立され、全国のプロテスタント教会でも歴史が古い。「格式ある教会に招聘されたということは、それだけ牧師として優秀で、覚えがめでたかったのだろう」。教団関係者はそう推察した。
「富士見町は『上がり』の教会だから」。金井氏自身がそう話すのを古参信徒は聞いたことがあった。結婚して子宝にも恵まれ、教会の主任牧師に次ぐ副牧師まで務めた。だが関係者によれば、そこで派閥争いに巻き込まれる形となり、教会を離れざるを得なくなったという。
平成8年、それまでの経歴を買われて明治学院付きのチャプレン(非教会付きの牧師)として着任することになった。
教団指導部は反権力・反国家の「社会派」が主流だったが、当時の金井氏は左右どちらの側にもくみしていなかったようだ。
ただ、社会運動に傾倒していた教団の牧師に、羨望に近いまなざしを向けていたことを古参信徒は覚えている。「ちょっと怖い感じはするけど、あの人はすごみがある」。その牧師のことを、金井氏はそんなふうに評していたという。

