種を超えた母性愛
「急に、子グマに生気が蘇りました。そして首をもたげておっぱいに吸い付いたんです。頼りなくはありましたが、確かにお乳を飲み始めました。
この子は、まだ諦めていない。必死に生きようとしている。小さな体にみなぎる命のエネルギーに、心が震えるのを抑えられませんでした」
子グマの乳を吸う力が強くなってきたところで、すかさず哺乳瓶にすり替える。子グマは夢中になってミルクを飲み続けている。ぐったりとしていた体が張りを取り戻し、寝ていた毛が立ち上がってくる。思わず涙が溢れた。
自分の母乳がこの子に取り込まれ、血となり肉となる。人間とクマが溶け合い、一体となる。種を超越した母性愛を感じながら、前田は子グマを抱き続けた。しばらくすると、満腹になった子グマはすやすやと眠りについた。
「ユリ、あなたとの約束、ちゃんと守ったよ」。前田は心の中でつぶやいた。気がつけば、夜が明けていた。
「ハナコ」と名付けた
花のようにかわいいと感じたこの子グマを、前田は「ハナコ」と名付けた。前田は木綿の布を使って、首からかける袋を作った。出勤するときは、その中にハナコを入れる。素肌に袋をあてがい、その上からセーターを着て、作業着を羽織る。
クマ牧場の詰め所には、ストーブの横にハナコのための寝床を用意した。ハナコが鳴き出すと、飛んでいってミルクをあげる。母グマと同様にお尻を舐め、排泄もさせた。
自らの母乳も与え続けた。子グマの爪は針のように尖り、簡単に人間の肌を傷つける鋭さを持つ。ハナコはその爪で、前田の胸をトントンとそっと叩きながら、優しく乳を吸った。痛みは全く感じない。
人間の赤ちゃんのように、乳房を握りしめたり、乳首を噛んだりして母親に悲鳴を上げさせるようなことはしなかった。「ヒグマは、自分を抑制する力、コントロールする能力が人間よりはるかに高い。本当に優しくて、繊細な動物なんです」と前田は語る。

