もうひとつの狙い

ヒグマたちに自然な冬眠を味わわせてやりたいという思いだけでなく、前田には別の狙いもあった。野生下であれば、子グマは通常はふた冬、母グマと一緒に冬眠する。そして、どういう場所が冬眠に適しているのか、どのように穴を掘って寝床を作るのか、などを親から学ぶ。

この、穴を掘って冬眠するという行動が、母親に教えられないとできないものなのか、それとも本能だけで為し得るものなのかを、前田は知りたかった。害獣として積極的な駆除が進めば、本当に野生のヒグマが山から姿を消してしまう可能性がある。

しかし人間たちが目を覚まし、ヒグマを絶滅させてはならないと考えるようになれば、施設で飼育したヒグマたちを、野生に再導入させなくてはならない日が来るかもしれない。そのとき、彼らは自分だけの力で冬眠ができるのだろうか。ヒグマの行く末を案じる前田ならではの壮大な実験でもあった。

穴を掘り始めたサチコ

前田が選んだのは、生まれて間もないころから自分で育てた、まだ1歳になっていないサチコというメスだった。サチコが斜面で暮らし始めた10月、前田は会社との約束を守り、24時間の監視体制に入った。

詰め所からは、斜面全体を見渡すことができる。前田は他のヒグマを飼育すると同時に、サチコの行動を見守った。他の社員が帰宅すると、事務机を窓際に2つ並べ、その上に毛布を敷き、寝袋の中から観察を続けた。

10月23日、サチコは猛然と土を掘り始めた。その年の初霜が降りた日だった。これまで見たことがない懸命さで、背中や尻からは湯気が立ち昇る。わずか2時間ほどで奥行き2メートルの横穴を完成させた。

それからは徐々に、ゴツゴツした壁をなめらかに整え、ササの先端を噛み切って穴に運び、寝床を仕上げていった。前田が穴に近寄ると嫌がり、「来ないで!」という仕草を見せた。食欲が旺盛になって、体重は一気に25パーセントも増えた。

11月に入ると、食欲は落ち着いた。しかし獣舎で飼育しているヒグマと同様に、サチコには餌を与え続けた。それでも冬眠するかを、前田は知りたかったのだ。サチコは日向ぼっこしながら昼寝をするようになり、やがて穴の中で過ごす時間が増えていった。

12月19日からは、何も食べなくなった。翌日は吹雪になり、雪が穴を覆った。そして21日以降は、全く穴から出なくなった。冬眠が始まったのだ。