ユリから託された赤ちゃん

ある年、ユリという高齢のメスが出産した。産室から聞こえてくる子グマの鳴き声がか細いのが気になった。4日目、ユリは産室から出たいという仕草をした。前田はすぐに上司の許可を得て、扉を開けた。ユリは子グマを残したまま外に出た。産室には、生後4日目にしては小さすぎる子グマがぐったりと寝ていた。

前田はすぐに胸の中に子グマを入れ、詰め所に走った。ストーブの火力を上げ、部屋を温める。体重を測ると320グラムだった。通常は生後1日目で400グラムはある。あまりに痩せすぎだ。

「きっとユリは、おっぱいが出なかったのだと思います。ユリが産室から出るときに目が合ったんですが、『私には、もう無理。お願いね』と子グマの命を託されたように感じました。何がなんでも、この子を死なせるわけにはいかない。私は『わかったわ、絶対に助けるからね』とユリに約束しました」

鍵は“アイヌの古老”から聞いた話

子グマは、生死の境をさまよっていた。退社時間となったが放ってはおけない。自宅に連れて帰る。前田は夕食もとらずに世話を始めた。温かいミルクを飲ませようとするが、子グマは反応しない。脈拍も弱くなった気がするが、ここまで小さいクマに、どうやって心臓マッサージをしたらいいのかが分からなかった。

息遣いが不安定になってきた子グマの口に唇を当て、息を吹き込んで人工呼吸を試みる。しばらくすると、子グマの呼吸が落ち着いた。今だ。すぐにミルクを温め直し、再び哺乳瓶を口に持ってゆく。それでも吸ってくれない。

前田は絶望した。小さな命の炎は弱々しく、消え去るのは時間の問題だろう。しかし、自分はどうすることもできない。衰弱した子グマを目の前にしたまま、刻々と時間が過ぎてゆく。我が子の命を自分に預けたユリの眼差しが、まぶたの裏に浮かぶ。

ふと思い出したのが、大学時代にアイヌの古老から聞いた話だった。小さなキムンカムイ(アイヌの言葉で「山の神」)である子グマを村で飼うとき、アイヌの女性はときに自分の乳を吸わせて育てていたという。

ヒグマと人間の乳首は、形も大きさも似ている。無機質な哺乳瓶の吸い口はくわえてくれなくても、体温の通った自分の乳房だったらなんとかなるかもしれない。前田は祈るような気持ちでセーターをたくし上げ、子グマの口にそっと胸をあてがった。そのとき、奇跡は起きた。

生まれたばかりのヒグマ
生まれたばかりのヒグマ[撮影=のぼりべつクマ牧場 前田菜穂子 出所=『羆追人たち』(山と溪谷社)]