前田菜穂子さんは半世紀近くに渡り、ヒグマの飼育・保全活動に携わってきた。きっかけは1975年に女性としては初めて「のぼりべつクマ牧場」の飼育員となった際、育児放棄をされた子グマを自ら育てたことにあるという。クマに魅せられた人たちの証言を集めたノンフィクションから、「ヒグマの母」となった女性のエピソードを紹介する――。

※本稿は黒田未来雄『羆追人たち』(山と溪谷社)の一部を再編集したものです。

念願の飼育員生活

1975年、大学を卒業した前田は、観光客向けのヒグマ飼育施設である「のぼりべつクマ牧場」に就職した。希望通りの動物課飼育係に配属されたが、課長からの第一声は忘れられない。「女の来るところじゃない。何しに来た、帰れ」。

前田菜穂子さん
前田菜穂子さん[ポートレート撮影=山田貞司 出所=『羆追人たち』(山と溪谷社)]

しかし持ち前の負けん気が頭をもたげた。獣舎の水洗いではフンの飛沫を浴び、餌の入った20キロもある一斗缶を天秤棒の前後に吊るして担ぎ、男性と同じ作業に取り組んだ。

それに加え、飼育員の詰め所の掃除、お茶汲み、作業着の洗濯から賄い飯の調理など、「女なんだから」と押し付けられた仕事も粛々とこなした。周囲の目が徐々に変わっていった。

ひと通り飼育業務を覚えたところで、前田は子グマの世話を担当することになった。母親代わりとなってヒグマを育てたいと思っていた前田にとっては、願ってもない仕事だった。当時、のぼりべつクマ牧場には40頭ほどの子グマがいた。毎年春になると、ハンターたちが多数の子グマを持ち込んでくる。背景には、北海道の政策があった。

ヒグマが悪者にされた時代

「そのころ、ヒグマは完全な悪者扱いで、『農業被害をもたらし、かつ人間を攻撃することもあるヒグマは、絶滅させるべきだ』という考え方が主流でした。エゾオオカミを絶滅させたときのように、ヒグマに対して毒まんじゅうを使うことが、道議会で承認されたほどです。幸い、実現には至りませんでしたが、『ヒグマを保護すべきだ』などと発言しようものなら、世間から激しいバッシングを受ける時代でした……」

道や市町村が奨励金を出し、足跡が追いやすい冬眠明けのヒグマを捕獲する「春グマ駆除」が盛んに行われていた。母グマを撃ったハンターは、残された子グマを生け捕りにする。

1頭が、20万円、30万円という値段で売れた。のぼりべつクマ牧場は、そうした孤児となったクマの収容施設としての側面も持っていた。記録に残る最大の買い入れ数は、5月の半月で32頭にも上った。

ハンターたちが次々と運び入れる、ダンボールや木箱。蓋を開けると、恐怖に震える子グマがうずくまっている。すぐにミルクをあげようとしても、気が動転していて全く受け付けようとしない。

まずは落ち着かせることが一番だ。蓋を閉め、暗く静かな場所にしばらく置く。1、2時間経ったところで、優しく声をかけ、胸に抱いて温める。そうやってようやく子グマは少し安心し、ミルクが喉を通るようになるのだった。