ところが、下請け業者ゆえの悲哀か、仕事量は膨大にもかかわらず、それに見合う収益は得られなかった。

「暗くて苦しい雰囲気ではなかった気はしますが、決して儲かっていたわけではありません。下請けの下請けだから、商品は一生懸命作るけど、利益は出ていなかったようです」

1981年生まれの三木社長は、こうした時期に長男として誕生したのである。

「中国に出ない」という決断

1980年代の日本はバブル景気に沸いた。だが、国内の繊維産業は徐々にかげりが見え始めていた。それは中国などから安い衣料品が大量に輸入されるようになったからだ。

他方、国内メーカーも安い人件費と豊富な労働力を求めて、生産拠点を中国に移す動きが本格化した。ちょうどその頃、三恵メリヤスにも海外進出の話が持ち上がる。取引先の大手スポーツ用品メーカーが中国で生産すると決めたのだ。

「大阪の組合の企業とともに中国を視察して、『三恵メリヤスさんも来てくれれば、引き続き仕事を発注しますよ』などと言われたそうです。でも、工場を視察した際に、ものすごい人数で大量の商品を作っているのを目の当たりにして、父はこんなに需要は取れないだろうと思ったらしいです」

帰国後、三恵メリヤスは「うちは中国に出ません。日本に残って、これまで通り取引のある会社とだけやっていきます」と宣言した。

この決断こそが、その後の三恵メリヤスの生き方を決定づけることになる。安さと大量生産を追うのではなく、日本国内で、丁寧にものを作り続けること――それは同社にとって、単なる経営判断ではなく、ものづくりの矜持そのものだった。

作業場の様子
筆者撮影
作業場の様子

大手が消えるなか、縫製特化で生き残る

もちろん、日本で製造を続ける会社はほかにもあったが、企業規模が明暗を分け、すべての工程を自前で行うような大手は苦しんだという。

「中国に出て行かなくても、その後、生き残った大手企業は少ないです。縫製、裁断、染めなど全部やっていたところは工場が維持できなくなりました。一方で、我々は縫製特化で、しかも主に肌着やTシャツだったから生き延びた。本当に巡り合わせです」

とはいえ、アパレル市場全体は上述したように、1991年をピークにダウントレンドだった。当時、そうした経済状況は何も知らずに幼少期を過ごした三木社長だったが、取引先が破綻したことで、ついに三恵メリヤスの厳しい台所事情を知ることとなる。

「1995年のことで、ちょうど高校進学を検討するようなタイミングでした。もう中学を出たら働くと言ったら、母親に泣きつかれました」

このような苦境に立たされても三恵メリヤスは必死に踏ん張った。結果的に大学進学までさせてもらったことに対して、三木社長は今でも感謝している。