焼け野原からの再出発
町工場というと、都心から外れた立地をイメージしがちだが、三恵メリヤスの社屋は文句なしの一等地にある。梅田駅から徒歩10分以内、若者が集う中崎町の一角に拠点を構える。昼時に訪れた際は、近隣で働く会社員や学生などが同社の前の路地をひっきりなしに行き交い、非常に活気があった。
「この場所に移転してきたのは、戦後すぐの1945年ですね。その前は福島(大阪市福島区)にあったのですが、大阪大空襲ですべて焼け野原にされてしまって」と三木社長は説明する。創業者から数えて4代目。2014年に家業に入り、2024年8月から社長を務めている。なお、メリヤスとは、機械編みの布地の総称である。
その単語を社名に入れる三恵メリヤスは、日本の肌着や体操服の歴史と深く関わる。1926年創業の同社は、三木社長の曽祖父・三木英治氏が特殊ミシン1台で起業し、主に縫製で事業を広げていった。戦後、海外輸出用の肌着を製造。当時は粗悪な商品が出回っていた中で、英治氏は品行方正を貫いた。
「その頃の輸出用の肌着は、1枚あたりの値付けではなく、1キログラムでいくらとか、重さなんですよ。ということは、重ければ重いほど儲かるじゃないですか。日本も当時はマナーが悪くて、水を吸わせたり、石を入れたりした商品が多かったそうです。でも、ひいおじいちゃんはそれをやらなかった。すると、『お前のところの商品はいつも乾いているし、何も入ってない』ということで信用されたみたいです」
三恵メリヤスは神戸のインド系商社に気に入ってもらい、東南アジア向けの輸出用肌着のビジネスが拡大したのである。
下請けの下請けは儲からない
1970年代に入ると、三恵メリヤスは学校用運動着の生産に携わることに。それまでは肌着などで学校の体育の授業を受けるのが一般的だったが、1960年代から学校用運動着の概念が定着し、世の中に普及していった。三恵メリヤスは取引のある問屋からの依頼で、製造の二次受けとして関わった。次第にこれが事業の中核となっていったのである。
それに付随してジャージの製造も開始。さらにはカレッジウェアと、学校関連のアイテムが増えていった。
「その時に作っていたジャージは、吊り編みという技術が使われていました。脇の部分に縫い目がない丸胴タイプで、今は世界でも和歌山でしか作っていません。その後、ジャージを作っていたということで、父親がカレッジスウェットの仕事を受注しました。運動着は4月が販売のピークだから、年明けから休みなく働いていたそうです。ただし、4月を過ぎると暇になるので、その時にジャージを作り、さらにカレッジウェアを作るようなことをひたすら繰り返していました」

