たった1週間で信長につくことを決断
中川清秀もいちおう茨木城に籠るには籠ったのだが、すぐに信長の調略を受け、開城している。それにあたっては、妹婿だった古田景安(のちの茶人として知られた古田織部)が説得に当たったともいわれるが、寝返りの決断はあまりにも早い。村重の謀反を信長が知ったのは、前述のように天正6年(1578)10月21日だったが、その1週間後の10月28日には、清秀はもう寝返っていたのである。
そして以後は、かつての主人であるばかりか、自分が謀反に向けて背中を押した荒木村重を、一貫して攻撃する側に回った。信長にとってはじつに心強く、村重にとっては、あまりに手痛いことだったに違いない。
有岡城における攻防戦は、翌天正7年(1579)9月まで続く。だが、それはある時期から信長が持久戦を選択したからであり、中川清秀と高山右近が離脱した時点で、信長にきわめて有利な状況になっていた。その意味では清秀は、信長の天下一統への道のりにおいて、かなり大きく貢献したことになる。
清秀はその後、信長の家臣として、丹羽長秀や池田恒興の旗下で活躍している。村重を裏切るまでは摂津の一部将にすぎなかったのが、裏切ってからは、信長の軍事行動に積極的に参加しているのだ。たとえば、天正10年(1582)3月には武田勝頼を滅ぼす戦いにも従軍しており、信長への貢献度の高さと、清秀のしたたかさを物語っている。
山崎合戦で光秀を破った男
したたかであると同時に、機を見るにも敏だったようだ。天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が斃れると、すぐに秀吉についている。
もっとも、秀吉はいわゆる「中国大返し」の途中で、中川清秀と高山右近に「信長と信忠父子は無事に近江に逃れた」というニセ情報を伝えている(6月5日付の秀吉の書状が残っている)。彼らが明智光秀に味方すれば、のちに信長から手痛い報復を受ける、と思わせたのだ。
それが功を奏してか否か、信長の三男の信孝を総大将とする四国出兵に加わる準備をしていた清秀は、秀吉に味方する決断をしている。
そして6月13日、清秀と高山右近は、「中国大返し」を終えた秀吉軍の先手として最前線に立ち、光秀を破る原動力になった――。そういわれてきたが、秀吉の書状をあらたに発見した中京大学の馬部隆弘教授が最近、秀吉は山崎の合戦に間に合わなかった、と指摘している。
山崎合戦の当日である6月13日に書かれたその書状で、秀吉は翌日に出陣する意向を示している。ところが光秀は、予想に反して13日に出撃してしまったため、摂津に領地をもつ清秀と右近、それに池田恒興が戦って、光秀の軍を破った、というのである。
じつは、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にだけは、秀吉は間に合わなかったと記されていた。右近は光秀の軍が迫っているのを知り、3里(12キロ)以上後方にいる秀吉に急報したが、光秀は進軍してきた。そこで右近らが光秀の軍に突撃したと書かれており、新発見の書状の内容と合致する。

