子孫は明治維新まで安定して存続
このように、荒木村重を裏切って以降の中川清秀は、かなり勢いづいていた。信長に信頼されて、軍事作戦に次々と従軍した。その信長が討たれると、山崎合戦に「遅参」した秀吉に代わって明智光秀と戦い、秀吉に大いなる恩を着せた。秀吉が信長の後継者競争から一歩抜け出し、織田政権を簒奪する道を切り開くうえでの、最大の恩人ということもできる。
むろん清秀は、その後も秀吉に従った。だが、山崎合戦の翌年の天正11年(1583)、賤ヶ岳合戦で不運が訪れる。柴田勝家が越前(福井県北東部)から近江(滋賀県)に進軍すると、一度は降伏した織田信孝が4月16日、伊勢(三重県東部)の滝川一益と結んでふたたび挙兵したのだ。このため、秀吉はいったん美濃に進軍した。
秀吉が離れたのを好機と見た勝家は、佐久間盛政に大岩山砦(滋賀県長浜市)を攻撃するように命じた。その結果、砦は陥落し、守っていた中川清秀は討ち死にしてしまった。
その後、清秀の次男の秀成が文禄3年(1594)、豊後(大分県)の岡城(竹田市)に入封。秀成は関ヶ原合戦で東軍にくみしたため、そのまま所領を安堵され、一度も移封がないまま明治維新を迎えている。清秀は戦死しても、中川家はそのしたたかさを受け継ぎ、時代を越えて存続した。しかし、歴史に「もしも」と問うことが許されるなら、中川清秀は、生きていたらどこまで大きくなっただろうかと、想像が膨らむ部将である。


