荒木村重の有岡城は堅固だったが…

その前に、有岡城がどう堅固だったのかを説明しよう。

伊丹段丘が東に突出した位置、ちょうど現在のJR伊丹駅の周辺に主郭部があり、西側と南側には堀がめぐらされていた。その周囲は家臣団が住む侍町と、町人らが住む町屋地区に分かれ、それらすべてを包み込むように、東西約800メートル、南北約1700メートルにわたって、土塁と堀が取り囲んでいた。

つまり、のちの北条氏の小田原城や秀吉の大坂城のように、城下町をもすっぽり取り囲む総構によって守られていたのだ。そのうえ北、西、南の要所には3つの砦が構えられ、信長や嫡男の信忠の軍を寄せつけなかったのである。

だが、城は堅固だったものの、与力(より大きな大名に付属させられた部将)の2人が離脱したのが、なによりも手痛かった。『信長公記』にはこう書かれている。

〈高槻の城も茨木の城も堅固であるから簡単には攻め崩されまいと、荒木も家臣たちも思っていたところ、意外にも、杖とも柱とも頼りにしていた高山右近・中川清秀が織田方に寝返ってしまった〉(中川太古訳、以下同)

高槻城(大阪市高槻市)は高山右近の居城、茨木城(大阪市茨木市)は中川清秀の居城だった。

謀反をけしかけた張本人なのに

キリシタン大名の高山右近は、最初から信長を裏切るべきではないと村重に主張し、村重が謀反を決断したのちは、イエズス会に説得されて信長につくという道を選んだ。

これに対して中川清秀の寝返りは、ある意味、たちが悪い。というのも村重は、信長への謀反を決断するに当たって、清秀に背中を押されたといわれるのだ。京都の豪商、立入宗継の日記『立入左京亮入道隆佐記』には、その経緯がおおむね以下のように記されている。

中川清秀像(梅林寺所蔵)
中川清秀像(梅林寺所蔵)(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

信長から謀反の疑いをかけられた村重は、母を人質に出して弁明しようと、安土城(滋賀県近江八幡市)に向かった。その途中で茨木城に立ち寄ったところ、城主の清秀は「安土に行けば、切腹させられるに違いない。だったら摂津で信長と一戦を交えるべきだ」と強く進言。それを受け入れた村重は安土に赴くのをやめ、有岡城に戻って籠城した――。

そうであるなら、清秀がけしかけたせいで、村重は信長に謀反を起こした、ということができる。ところが、そんな清秀が信長に寝返ってしまった。