黒田官兵衛とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「非常に状況が見えている武将だった。だから秀吉恩顧の武将でありながら、関ヶ原合戦後には17万石から52万石への大幅な加増を得た」という――。
黒田孝高像
黒田孝高像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

なぜ「秀吉の右腕」は関ヶ原で家康に与したのか

「軍師官兵衛!」。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第24回(6月21日放送)のサブタイトルである。実際、黒田孝高、通称「官兵衛」といえば(記事内ではわかりやすさを優先して官兵衛と記す)、羽柴秀吉の天下一統を支えた無二の「軍師」として知られる。

最初に少しだけ留保をつけておくと、官兵衛が本当に「軍師」、すなわち、秀吉の近くに仕えて作戦や計略を立案する参謀だったのかについては、疑問を呈する声が近年高まっている。

というのも、戦国時代には「軍師」なる概念はなかった。では、なぜ「軍師官兵衛」といわれるのかといえば、貝原益軒がまとめた『黒田家譜』をもとに、明治以降に書かれた伝記や小説を通じてイメージがつくられたと考えられる。そもそも『黒田家譜』は、官兵衛の死後数十年も経ってからまとめられているうえに、黒田家の正史なので、内容はかなり「盛られて」いる。

だからといって、秀吉の天下一統に対する官兵衛の貢献度が、小さかったということにはならない。「軍師」ではなかったかもしれないが、秀吉の絶大な信頼を勝ちとり、まさに右腕として近くに仕え、軍事から諸大名との交渉まで、多方面にわたって支え続けた。貢献度がきわめて高かったことはまちがいない。

だが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、官兵衛がくみしたのは徳川家康が総大将を務める東軍だった。秀吉の右腕がいったいなぜなのか。それをひもとくと、戦国時代がいかに一筋縄ではいかない時代であったのかがよくわかる。