「秀長と同じくらい信頼している」

秀吉との関係が深まるのは、天正5年(1577)、信長の命令で秀吉が播磨(兵庫県南西部)に進駐してからだ。すでに信長には臣従していた官兵衛だが、自身の居城の姫路城(兵庫県姫路市)に秀吉を招き入れ、本営としてその本丸を提供したという。

荒木村重が信長に謀反を起こした際、村重を翻意させるために有岡城(兵庫県伊丹市)に乗り込み、そのまま1年ほど幽閉された話はよく知られる。そうした調略活動はいくつも行っており、天正7年(1579)に宇喜多直家が毛利方から織田側に寝返ったのも、官兵衛がひそかに交渉を重ねた結果だという。

だから秀吉はそのころ、官兵衛に宛てた自筆の書状に「その方の儀は、我ら弟の小一郎め同然に心安く存じ候間(貴殿のことは、私の弟の小一郎と同じように信頼している)」と書いている。文字どおりに秀吉の右腕だった秀長と同じくらい信頼している、というのだから、かなりの信頼度だろう。実際、この時点ではまだ新参者だった官兵衛が、秀吉の一門や蜂須賀正勝ら古参の家臣に次ぐ高い地位を得ていた。

黒田孝高所用の甲冑・黒糸威胴丸具足。福岡市博物館所蔵。
黒田孝高所用の甲冑・黒糸威胴丸具足。福岡市博物館所蔵。(写真=国立国会図書館デジタルコレクション/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起きると、秀吉の「中国大返し」に際し、姫路で兵員や兵站を集めるうえで、官兵衛が大きな力を果たした。また、明智光秀を破った山崎合戦にも従軍している。

秀吉との関係にヒビが入った出来事

ところで、本能寺の変が起きたとき、秀吉は中国地方で毛利氏と対峙していたが、その後も、秀吉が織田家内部の主導権争いを有利に進めるために、毛利家との交渉が非常に重要だった。その交渉に蜂須賀正勝とともに臨んでいたのが官兵衛だった。

また、秀吉が柴田勝家と対立すれば、賤ヶ岳合戦をはじめとする一連の戦いに従軍し、大坂築城に際しては石垣の工事などを担当し、紀州(和歌山県)の根来衆や雑賀衆が一揆を起こせば、その鎮圧に駆り出されている。

秀長が総大将を務めた四国出兵では、城の引き取りや受け渡しに勤しみ、九州出兵では、九州の諸勢力に接して情報をとりまとめ、1カ月に3回ものペースで秀吉に注進した。それでいて、直接的な軍事行動も行っている。

軍師的な仕事も見られるものの、それ以前に、まさに何でも屋として秀吉のかゆいところに手が届く仕事を重ねていた。ただし、秀吉と常にうまくいっていた、というわけではなかった。

官兵衛は天正13年(1585)、洗礼を受けてキリシタンとなったが、2年後に秀吉はバテレン追放令を発している。そのとき棄教こそ迫られなかったが、かなりの不興を買った。官兵衛は九州平定後、秀吉から豊前(福岡県東部と大分県北西部)の6郡をあたえられた。だが、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの書簡によれば、官兵衛がキリスト教に執着しなければ、秀吉はもっと領地をあたえるつもりだったという。