「秀長と同じくらい信頼している」

秀吉との関係が深まるのは、天正5年(1577)、信長の命令で秀吉が播磨(兵庫県南西部)に進駐してからだ。すでに信長には臣従していた官兵衛だが、自身の居城の姫路城(兵庫県姫路市)に秀吉を招き入れ、本営としてその本丸を提供したという。

荒木村重が信長に謀反を起こした際、村重を翻意させるために有岡城(兵庫県伊丹市)に乗り込み、そのまま1年ほど幽閉された話はよく知られる。そうした調略活動はいくつも行っており、天正7年(1579)に宇喜多直家が毛利方から織田側に寝返ったのも、官兵衛がひそかに交渉を重ねた結果だという。

だから秀吉はそのころ、官兵衛に宛てた自筆の書状に「その方の儀は、我ら弟の小一郎め同然に心安く存じ候間(貴殿のことは、私の弟の小一郎と同じように信頼している)」と書いている。文字どおりに秀吉の右腕だった秀長と同じくらい信頼している、というのだから、かなりの信頼度だろう。実際、この時点ではまだ新参者だった官兵衛が、秀吉の一門や蜂須賀正勝ら古参の家臣に次ぐ高い地位を得ていた。