1578年、織田信長は荒木村重の謀反により苦境に追い込まれた。いかにしてその状況を打破したのか。歴史評論家の香原斗志さんは「村重配下の有力武将が信長に寝返ったことで、戦況が大きく変わった。そこにはイエズス会が大きくかかわっていた」という――。
「太平記英勇伝三十八:荒木摂津守村重」(落合芳幾作)東京都立図書館
「太平記英勇伝三十八:荒木摂津守村重」(落合芳幾作)東京都立図書館(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

信長にとって荒木村重は敵にしてはいけない男だった

使者が飛び込んできて、「有岡城主、荒木村重様、謀反にござりまする」と伝え、羽柴秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀、のちの秀長)は青ざめた。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第22回「播磨大誤算」(6月7日放送)。

織田信長のもとにこの報がもたらされたのは、天正6年(1578)10月21日のことだった。『信長公記』によれば、信長はすぐには信じなかったという。その後、明智光秀ら重臣を遣わし、言い分があるなら申し出るように、また、野心がないなら出仕を続けるように、と伝えた。

それほど信長は村重を信頼し、敵に回してはいけない存在として重視していたということだ。なにしろ村重は、現在の大阪市北部と中部を含む要地である摂津の統治をまかされていたのである。だが、村重は翻意しなかった。

信長に謀反の一報が届く4日前の10月17日、村重は大坂本願寺の顕如と盟約を結んでいる。顕如は村重父子に宛てた起請文に、本願寺に忠誠を誓ったことへの評価と同時に、領地等については毛利氏の庇護下にいた将軍足利義昭に従うように書いている。つまり村重は、本願寺、毛利氏、足利義昭による信長包囲網に加わる道を選んだのだ。

それは信長にとって、ひょっとすると天下統一が危うくなるほどの難題だった。実際、有岡城(兵庫県伊丹市)に立て籠もった村重とは、1年も攻防が繰り広げられた。だが、結果的に村重は、思ったほどの難敵にならずに済んだ。その背景には、ある武将の貢献と、その武将へのある団体からの説得があった。