2人の武将の寝返り

「豊臣兄弟!」の第22回では、村重(トータス松本)の与力を務める高槻城(大阪府高槻市)の高山右近(市川知宏)と茨木城(同茨木市)の中川清秀(すがおゆうじ)が、毛利氏の使者として安国寺恵瓊(立川談春)を連れてきた。この2人が毛利と内通し、村重を信長から離反させようとした、という描写だ。しかし、『信長公記』には次のように書かれている。

〈高槻の城も茨木の城も堅固であるから簡単には攻め崩されまいと、荒木も家臣たちも思っていたところ、意外にも、杖とも柱とも頼りにしていた高山右近・中川清秀が織田方に寝返ってしまった〉(中川太古訳、以下同)

とくに高山右近の寝返りは手痛かった。その経緯については、別の箇所に次のように書かれている。

〈高槻の城主高山右近は吉利支丹(キリシタン)であった。信長は妙策を思いつき、伴天連(宣教師)を召し出して、「この際、高山が我らの味方になるよう取り計らってもらいたい。実現したら、吉利支丹の教会をどこに建ててもよいぞ。もし引き受けなければ、吉利支丹を禁制とする」と申し渡した。伴天連はこれを承知し、佐久間信盛・羽柴秀吉・松井友閑・大津長治が同道して高槻へ行き、高山を説得した。高山はもちろん荒木村重に人質を提出していたが、人質を見殺しにしても信長方に付く方が将来のために良策であると判断し、伴天連の説得に応じて、高槻の城を明け渡した。信長は満足であった〉

右近を説得したのはバテレン、すなわちイエズス会の宣教師だったという。そうであるなら、信長の天下一統の過程で、高山右近と中川清秀、それにイエズス会の貢献度が非常に大きかった、ということになる。

ローマ法王庁による高山右近の列福式。中央は右近の肖像画=2017年2月7日、大阪市中央区
写真=時事通信フォト
ローマ法王庁による高山右近の列福式。中央は右近の肖像画=2017年2月7日、大阪市中央区

暗躍する宣教師

ただ、右近が「寝返る」までには、『信長公記』に書かれている以上に紆余曲折があったようだ。イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』には、その間の事情が詳述されており、概略は次のような話である。

村重が本願寺や毛利と結んで信長と敵対しようとしたとき、右近は理由を3つ挙げて反対したという。1つ目は、村重を一国の領主にまで引き立ててくれた信長への恩義があること。2つ目は、戦力を比較すれば信長への勝利は困難であること。3つ目は、信長が勝てば村重には想像を絶する懲罰が下されること、だった。

そして右近は、自分が信長に取り入っているのではないと証明するために、すでに渡してあった妹2人に加え、息子を人質として村重に差し出した。この人質問題が、以後しばらく右近を苦しめることになった。

右近に説得された村重は、一度は信長の許しを得ようと考えたが、有岡城の家臣たちがそれを許さず、不本意ながら謀反を貫徹する。その後、右近は尊敬する宣教師のオルガンティーノから、信長に敵対しないよう説かれた。信長もまたオルガンティーノを招き、脅しながらも右近を説得するように依頼した。だが、右近は3人の人質が気がかりで仕方ない。

一方、息子と同様にキリシタンであった父の高山友照は、2人の娘と孫が村重に殺されるのを恐れ、信長に味方するなどもってのほかだという立場だった。