右近の人質だけは助かった

その後も宣教師や修道士はあの手この手で右近を説得し、右近はある日、以下のような解決策に思い至る。

出家して教会での奉仕活動に専念することにし、領土も家臣も捨てて城を離れる。それなら右近が寝返ったことにならず、村重は右近の息子や妹を殺さないだろうし、信長を裏切ったことにもならないから、信長も宣教師に危害を加えないだろう――。それを実行に移した右近だったが、信長から直接、自分に奉仕するよう説得されると、受け入れている。

その後、高槻城へ戻った右近は家臣から歓待されたが、右近も父も、自分たちの子供が殺されはしないかという憂慮をいだき続けた。実際、有岡城内では、敵になった右近の息子と妹を串刺しにして磔刑にすべきだ、という意見が上がっていた。村重が止めたが、それでも処刑を断行しようとする者がいた。ところが、実行する直前に起きた戦闘で、その者が偶然にも戦死したという。

こうして右近の息子と妹は生き永らえた。その後、村重らが有岡城を捨てて逃げ、残された人たちは信長の命で処刑される。だが、信長は右近の父の友照、右近の息子と2人の妹は救うように命じた。この期におよんでようやく、右近は憂慮から解放されたのである。

宣教師が信長にあたえた影響

「豊臣兄弟!」はどういうわけか、宣教師や南蛮商人が登場しないばかりか、気配すら感じられない。だが、信長は記録にあるだけでも宣教師と30回以上も長時間の会話を交わしており、フロイスだけでも18回も対面している。そして海外の品々ばかりか知識も積極的に取り入れようとした。

また、『日本史』に記録された発言から、信長は自分がヨーロッパの王にも比肩し得る君主だと、諸外国に伝わることを願っていたとわかる。実際、信長は海外進出を目論んでいたと考えられている。秀吉の朝鮮出兵とは異なる巨大艦隊による進出で、貿易の範囲にとどめるつもりだったか、侵略まで考えていたのか、そこはわからない。

ただ、そういう信長だから宣教師との交流が活発で、宣教師が信長に影響をあたえることや、政治的な役割を果たすことは少なからずあった。その一つが高山右近の説得だった。

祭司たちの手元
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右近はキリシタンだったので、フロイスが美化した面はある。むろん美化は捏造とは違うが、歴史研究者は「盛っている」からとフロイスの記述を軽視する傾向がある。しかし、国内の史料のほとんども、ときの権力者を美化している。むしろ、宣教師は国内の権力者に忖度する必要がなかった分、状況をより生々しく伝えていることが多い。