本能寺の変はなぜ起きたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「近年の研究では『四国説』が有力だ。四国の覇者である長宗我部元親の取次を担った明智光秀は、信長の要求との板挟みにあい立場を失った。その裏には光秀以上に追い詰められていた人物がいた」という――。
毎年7月に福島県相馬市で開催される「相馬野成」
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織田信長の絶頂だった「馬揃え」で起きた“変事”

天正9年(1581)2月28日、織田信長は京都で大規模な「馬揃え」を催した。「馬揃え」とは名馬や精鋭部隊を集めての一種の軍事パレードで、イエズス会宣教師のルイス・フロイスによれば、参加者は13万人を超え、20万人もの群衆が集まったという。

武将たちは可能なかぎり華やかに着飾って参加するように命じられていた。そこで、たとえばキリシタン大名たちは、ロザリオや大きな十字架、西洋風のマント、十字架がついた馬覆い、金の房がつきローマ字が染め抜かれた真っ赤な旗、といったいでたちを競い合った。

信長はというと、金紗という唐織物を身に着け、後ろに花を挿した帽子をかぶり、紅梅に白の模様の華麗な小袖をまとい、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノから贈られた黄金の装飾がほどこされた真っ赤な椅子に座った。

この馬揃えは単に派手だっただけではない。明治維新を迎える前の日本で、もっとも西洋色が強まった瞬間だったと思われる。

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第25回「変事の予兆」(6月28日放送)でも、この馬揃えの模様が描かれる。そして、女物の装束をまとって参加していたある武将が、小一郎(仲野大賀、のちの羽柴秀長)と会話を交わすようだ。

本能寺の変の原因

その武将とは四国の覇者、長宗我部元親(磯部寛之)だった。そして、四国を制覇した折には、土佐のうまい魚を馳走すると小一郎に約束する。この時点で、元親は四国を平定することに意欲満々だ。

ところが、少しすると織田信長(小栗旬)は明智光秀(要潤)を呼んで、元親による四国平定を認めないと言い渡す。光秀は大いに困惑するが、信長は光秀にこう伝えるようだ。「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」。

サブタイトルは「変事の予兆」。史実においても、信長が光秀に言い渡したことが「変事の予兆」だった可能性が高い。というのも、馬揃えから1年3カ月後の天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の原因としては、現在、この「四国説」がもっとも有力視されているのである。

その内容についてこれから述べるが、ごく簡単にいえば、長宗我部元親の四国平定を認めていた信長が手のひらを返し、仲介していた光秀が困ってしまった、という話である。