信長の見事なまでの手のひら返し

長宗我部元親は、この馬揃えに5年余りさかのぼる天正3年(1575)9月、四万十川の戦いで土佐一条氏を破り、土佐(高知県)一国を完全に統一していた。次はいよいよ四国全土の攻略だったが、そこで元親に手を差し伸べたのが信長だった。

それは信長一流の戦略にもとづいていた。そのころ信長は大坂本願寺(大阪市中央区)と戦っていたが、阿波(徳島県)の三好氏が物資を搬入するなど、本願寺を後方支援することに手を焼いていた。そこで元親を助け、三好氏を討伐させようと考えたのである。天正6年(1578)10月には、元親が四国全土を攻略することを容認し、その嫡男に「信」の1文字をあたえて信親と名乗らせた。

このとき元親の取次を務めたのが明智光秀だった。元親の事績を記した『元親紀』によれば、元親の妻は、光秀の重臣として知られる斎藤利三の義理の妹だったため、光秀が取次に選ばれたのだという。

以後、光秀は一貫して元親の取次を務めたが、天正8年(1580)閏3月、信長が10年も争ってきた本願寺との和睦が成立し、同年8月には宗主の顕如が大坂から退却した。そうなると、四国全土を制覇しようという元親は一転して、信長には危険な存在になってしまった。

長宗我部元親。画名「絹本著色長宗我部元親像」秦神社所蔵品
長宗我部元親。画名「絹本著色長宗我部元親像」秦神社所蔵品(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

間に挟まれた明智光秀の苦悩

信長が元親を危険視するようになった理由は、もう一つあった。「豊臣兄弟!」でも描かれているように、羽柴秀吉は播磨(兵庫県南西部)を、弟の秀長は但馬(兵庫県北部)を平定し、さらに淡路島も制圧して、播磨灘の制海権を獲得した。その過程で秀吉は、三好家も調略して服属させていた。そうなると信長にとって、もはや長宗我部氏の力を借りる必要はまったくなかった。

そこで信長は、天正9年(1581)9月ごろ、光秀を通じて元親に、支配地域は土佐のほかに、阿波の南半分だけで我慢するように伝えている。

だが、いまさらそんなことをいわれて、元親が納得するはずもない。3年前に四国全土を攻略していいといわれ、まさに実行中なのだ。抵抗したが、信長にとっては、自分の決定に従わないことほどけしからぬことはない。

最終的に信長は、元親の敵で、少し前まで信長の敵でもあった三好康長に、阿波一国を統治させることに決める。そして天正10年(1582)1月、光秀に命じて元親に、当初打診した阿波の南半分もあきらめ、「領国は土佐一国」とするように伝えさせた。

信長と元親のあいだに立って、苦慮したのは光秀だった。信長の道理に合わない要求を、次から次へと元親に伝えさせられ、しかも、元親からは色よい返事がもらえない。とくに「領国は土佐一国」と伝えてからは、返事自体をもらえなくなってしまった。