なぜ6月3日に本能寺を襲ったのか

だが、光秀も放置はできない。元親が納得しなければ、自分の身が危うくなりかねないからである。光秀は元親に、信長の命令に従わなければ長宗我部家が滅亡させられる、と伝えて、必死の説得を試みた。

ところが、こうして説得している最中に、信長は元親征伐を兼ねた四国への出兵を決定してしまう。さすがに光秀は、立場がなくなったことだろう。

四国出兵の総大将は信長の三男の信孝で、出兵が予定されていた日は6月3日。すなわち、本能寺の変の翌日だった。元親の取次として立場を失った光秀が、このままでは自分および明智家にもどんな処分が下されるかわからない、と悲観しても不思議はない。その挙句、四国出兵の前日に信長と信忠父子を襲った、というのが「四国説」である。

もっとも、光秀は悲観しても、彼が信長の信頼を失っていたかどうかは、また別の話だろう。東京大学史料編纂所教授の金子拓氏は、光秀が本能寺の変の直前にも信長に信頼されていたと訴え、こう書く。「光秀は、武田攻め、家康らの接待、そして中国攻めのための出陣と、信長の命を受け休む間もなく奔走していたのである。これだけ立てつづけに重要な役目を与えられるのだから、信頼されていないはずはない」(『織田信長 不器用すぎた天下人』河出書房新社)。

光秀以上に苦悩していた斎藤利光

しかし、佐久間信盛の例もあり、光秀は不安になっただろう。織田家の筆頭家老で長年の功労者だった信盛は、大坂本願寺との戦いが終結した天正8年(1580)8月、信長から「十九条の折檻状」を突きつけられ、高野山に追放された。

その第三条には「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に羽柴藤吉郎、数カ国比類なし」と書かれていた。日向守こと光秀は丹波(京都府中部と兵庫県北東部)で面目躍如たる働きをし、秀吉の数カ国にまたがる働きも比類ない、という内容で、それにくらべると本願寺攻略の総大将だった信盛は、消極的だったと断じられたのだ。

この時点では光秀は褒められているが、いつ自分が難詰される側に回らないともかぎらない――。そんな思いはあったのではないだろうか。

加えて、光秀以上に追い詰められていた人物がいた。光秀はその人物に背中を押されたに違いない。その人物とは、前述したように義理の妹が元親に嫁いでいた斎藤利三である。つまり、元親と光秀を結んだのが、元親の小姑である利三で、信長の四国政策が変更されたことで、光秀以上に立場を失っていたと考えられる。

月岡芳年 作「月百姿 月下の斥候 斎藤利三」
月岡芳年 作「月百姿 月下の斥候 斎藤利三」(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「彼こそは変の首謀者だ」

当時の公家たちはそのことを理解していたようだ。観修寺晴豊や山科言経らは、本能寺の変後に捕らえられ、京都の市中を引き回される斎藤利三を見て、「彼こそは変の首謀者だ」という趣旨のことを日記に書いている(『晴豊公記』『言経卿記』)。

いずれにせよ、本能寺の変のキーマンは、「豊臣兄弟!」にはさり気なく登場する長宗我部元親であった。その可能性が非常に高い。元親が信長の力を正しく判断し、その要求を受け入れていれば、光秀は謀反を起こさずに済み、信長の天下一統が完成したかもしれないのである。

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