1582年6月2日、織田信長は明智光秀の謀反により討たれる。歴史評論家の香原斗志さんは「実際に信長を襲ったのは、光秀ではなくその配下の武将だった可能性が高い。光秀はある目的をもって本能寺の8キロほど南方にいた」という――。
本能寺本堂
本能寺本堂(写真=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

本能寺の変の原因とされる「四国説」とは

明智光秀(要潤)を呼んだ織田信長(小栗旬)は、長宗我部元親(磯部寛之)が四国全土を切り取る(征服する)ことを認めない、と告げた。これに困惑した光秀が、その理由を聞き返すと、信長は「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」と言い放った。

この場面が流されたのは、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第25回「変事の予兆」(6月28日放送)の終了直前。サブタイトルの「予兆」はこの場面か、と感じ取った視聴者は多かったのではないだろうか。実際、長宗我部元親の四国制覇を後押ししていた信長の方針変更が、光秀の謀反を呼び起こしたという「四国説」が、本能寺の変の原因として現在、もっとも有力視されている。

光秀はパワハラまがいの叱責をたびたび受けた末に、いわば出来心で信長を襲った、と捉えている人も少なくない。だが、叱責による屈辱が後押しになった可能性はあるが、出来心ではない。後に述べる「新事実」からも、光秀は周到に準備して、信長と嫡男の信忠を討った。そのことを検証する前に、四国説を簡単に説明しておきたい。

信長は天正6年(1578)10月、土佐(高知県)一国を平定した長宗我部元親が、四国全土を攻略することを容認した。当時、信長は大坂本願寺(大阪市中央区)と長期にわたり争っており、本願寺を後方支援する阿波(徳島県)の三好氏に手を焼いていた。そこで、元親に三好を討伐させようと考えたのだ。