周到に準備された「変」の中身
『乙夜之書物』には、本能寺の変について次のように書かれている。〈本能寺ヱハ明知弥平次斎藤内蔵人数弐千余キ指ムケ、光秀ハ鳥羽ニヒカヱタリ(本能寺へは明智秀満と斎藤利参が率いる2000余騎を差し向け、光秀は鳥羽に控えていた〉
この内容からは2つのことが読み解ける。1つは本能寺の変における斎藤利三の深い関与。もう1つは、謀反を成功させるための明智光秀の周到で冷徹な戦略である。
筆頭家老の斎藤利三を本能寺に「指ムケ」た光秀が指揮官であることには変わりない。だが、信長を直接討つ役割は利三が負ったということだ。『乙夜之書物』によれば、前日に光秀が丹波亀山城(京都府亀岡市)に首脳を集めて謀反を打ち明けた際、利三が「これまで謀反をずっと延期してきた。先鋒は私が務める」と主張したという。
それが本当なら、光秀と利三は早くから謀反の計画を立てていたことになる。加えて、光秀より利三が前のめりになっていたのが伝わる。実際、利三にはそうなる動機があった。
5日前に信長から切腹を命じられていた男
斎藤利三はもともと美濃の斎藤家に連なり、西美濃三人衆の一人で信長に寝返った稲葉一鉄に仕えていたが、光秀の家臣に転じた。そして前述のように、織田家と長宗我部元親との間を取り持ったのだが、利三と長宗我部家は思いのほか深い絆で結ばれていた。
それを理解する鍵になるのが、室町幕府奉公衆だった石谷光政である。この光政の娘が元親の妻だったのだが、光政は利三の母の再婚相手で、すなわち利三の義理の父だった。そして、利三の実兄の頼辰は石谷家の養子となり、現場における元親への連絡役だった。つまり利三も兄の頼辰も元親の義兄弟で、2人とも光秀に仕えていたが、一族の存立は長宗我部家に拠っていたといえる。
その長宗我部家が前述のように、信長の討伐の対象となったのである。加えて、利三を追い詰めるできごとが、『稲葉家譜』に記されている。
光秀が、稲葉一鉄の家老の那波直治を引き抜いて家臣にすると、困った一鉄が信長に泣きついた。それを受けて信長は本能寺の変直前の5月27日、直治を稲葉家に戻すように沙汰し、稲葉家の元家臣で引き抜きをあっせんした利三には、切腹を命じていた。周囲の執り成しで切腹は免れたが、利三が信長への不信感をさらに募らせたことは、想像に難くない。

