本能寺ではなく鳥羽にいたワケ
続いてもう1つ。光秀はどのように周到だったのか。本能寺の現場は信長への憤りを募らせる利三にまかせたのはいいとして、自身はなぜ鳥羽に控えたのか。
鳥羽は本能寺の8キロほど南方で、『乙夜之書物』を読み解いた萩原氏は、信長を討ち漏らしたときのことを考えたのではないか、と推測する。このとき、大坂には信長の三男の信孝が率いる四国攻めの軍勢1万4000が控えていた。信長が逃げるとしたらどこだっただろうか。居城の安土城には軍勢が残っていなかった以上、謀反に対抗する兵力が集結している大坂に逃げる蓋然性が高い。
そう考えれば、光秀が大坂方面に下る交通の要衝である鳥羽に控えていたのは、かなり冷徹な判断にもとづく戦略だったことになる。
また、『乙夜之書物』によれば、光秀は本能寺の方面から上った煙で、信長襲撃が成功したことを確認すると、今度はみずからが本隊を率いて嫡男の信忠を襲い、二条御所での切腹に追い込んでいる。それも鳥羽に控えていればこそ、可能になった戦術だったといえる。
その後の顛末はともかくとして、ここまでの光秀は、クーデターをきわめて周到に準備していた――。光秀が鳥羽に控えていたなら(筆者はこの説を肯定する)、いっそうそのようにいえる。

