信長と元親の間に立たされた
ところが、その2年後には本願寺との戦争が終結し、三好氏も信長に服属した。そうなると、元親に四国を制圧させるのは、信長にとってむしろ危険に思われるようになった。
そこで信長は元親に、領国は土佐一国と阿波の南半分で納得するように伝え、元親が納得しないと、今度は土佐一国にかぎるように伝え、元親が返事をしないと、ついには四国への出兵を決めてしまった。
光秀はこの方針変更に翻弄された。というのも、光秀の筆頭家老である斎藤利三の義理の妹が元親の妻だという関係で、信長と元親との間の「取次」を務めていたのが光秀だったのだ。信長の決定は光秀を通して、さらに細かくいえば、斎藤利三とその親族を通して、元親に伝えられていた。
光秀は両者の間に立って苦慮したものと思われる。しかし、元親は信長の命に従わず、それを受けて信長はどんどん硬化し、光秀は立場を失っていった。長宗我部家と親族関係にあった斎藤利三は、さらに苦境に陥ったことだろう。
元親を説得できなかった光秀は、明智家の存続に不安を感じても不思議ではなかった。実際、織田家筆頭家老だったのに、自分が責任者だった本願寺との戦いの終結後、信長から「十九条の折檻状」を突きつけられて追放された佐久間信盛の例もあった。
「光秀は本能寺にいなかった」という証言
さて、本能寺の変の当日だが、近年、光秀は本能寺の現場にいなかったという説が唱えられ、筆者はかなり信憑性が高いと考えている。また、光秀が控えていたとされる場所からは、光秀の周到な戦略が読みとれる。
光秀が本能寺に不在だったと記されている史料とは、加賀藩の兵学者だった関屋政春が記した『乙夜之書物』で、京都女子大講師の萩原大輔氏が読み解き、『異聞本能寺の変―『乙夜之書物』が記す光秀の乱』(八木書店)を刊行している。
『乙夜之書物』は3巻3冊の記録で、関屋が聞いた戦国時代の数々の逸話が524条にまとめられている。聞き書きをまとめた二次史料であり、書かれた時期も寛文9~11年(1669~71年)と、本能寺の変からは90年近くを経ている。しかし、だれから聞いたか明記された挿話が多い。本能寺の変について関屋政春に話をしたという井上重成は、斎藤利三の三男で、父と一緒に本能寺で信長を襲撃した斎藤利宗の甥。叔父の利宗から聞いた話を、政春に伝えたというのだ。
「また書き」の二次史料とはいえ、本能寺の変の当事者が語った話だというのが貴重である。また、政春は上巻の奥書に〈ゆめゆめ他人に見せ給うべからず(決して他人に見せてはいけない)〉と書いている。脚色だと疑う向きもあるようだが、人に読ませない書物を脚色する動機は、常識的には存在しない。

