官兵衛あっての天下統一だったが
とはいっても、秀吉は官兵衛に頼り続けた。九州平定後、佐々成政にあたえられた肥後(熊本県)は、一揆が勃発して大混乱に陥った。そういうときも秀吉に正確な情報を注進するのは官兵衛で、だからこそ、九州の情報を海路から畿内に届けやすい豊前に官兵衛が置かれたのかもしれない。
天正17年(1585)5月、官兵衛はわずか数え40歳で、嫡男の長政に家督を譲ったとされる。以後、ますます秀吉に近侍するようになる。小田原攻めにも従軍したが、小田原城の開城後、長政が送った陣中見舞いへの返書に秀吉は、北条氏直が開城を決意したのは、官兵衛の考え抜かれた交渉のおかげだ、と述べている。
その後、秀吉の奥州仕置にも、その後の京都への凱旋にも、官兵衛はずっと近侍した。また、秀吉と毛利家をつなぐ役割も相変わらず担い続けた。それどころか、毛利ほどの大大名が官兵衛を介さずには秀吉と接触できなかったのである。
だが、秀吉とのあいだにすき間風が吹きかねないようなことも、少しずつ増えていった。長年親しくしてきた秀長が病死し、千利休は切腹させられた。官兵衛は羽柴秀次とも親しく交際してきたが、いわゆる秀次事件が起き、秀次は切腹し、その家族は斬殺された。その前に官兵衛自身も、秀吉に殺されそうになっている。
秀吉末期におきた朝鮮出陣での混乱
朝鮮半島へと、本営の肥前名古屋城(佐賀県唐津市)から再度の渡海をした後のこと。秀吉は、全羅道を攻略してから越冬のための築城工事に取りかかるように、官兵衛を通じて朝鮮半島にいる武将たちに命令した。だが、武将たちは現地の情況から、最初に築城が必要だと訴え、そのことを官兵衛から秀吉に伝えてもらおうとした。
結果として官兵衛は、秀吉の軍令を執行せず名護屋に戻る恰好になったわけだが、これに秀吉が激怒した。独断で軍令を無視したと断定され、秀吉は対面も許さず、見せしめのためにも成敗しようとまでしている。秀吉の怒りが収まらないので、官兵衛は文禄2年(1593)の夏に剃髪した。
最終的に、長政に免じて助命はされたが、以後、官兵衛は長政がいる朝鮮半島に戻り、体調が悪化しても帰国しなかった。3年前後は朝鮮半島にとどまり、心配する秀次の説得にも応じなかったが、その秀次は前述のように悲惨な末期をたどった。官兵衛の心中はかなり複雑だったのではないだろうか。
しまいには長政までが、蔚山城合戦で臆病な行動をとったと糾弾され、秀吉への拝謁も許されなかった。慶長3年(1598)8月18日、秀吉が死んだのはそんな状況下だった。
