「戦争だけはあきまへんなあ」

2001年、中内はダイエーの全役職から退任した。退任会見では「何でもあるが、欲しいものはないと言われるスーパーを考え直す必要がある」と語っている。自らが築いた業態の限界を、最後は本人が認めざるを得なかった。

2004年、ダイエーは産業再生機構に支援を要請する。中内は東京・田園調布と兵庫県芦屋市の自宅を手放した。「裸一貫からやり直す」と周囲に語っていたという。

亡くなる直前の2005年8月25日、前兵庫県知事の貝原と食事をともにした中内は、総選挙の話題のなかでぽつりとつぶやいた。「戦争だけはあきまへんなあ」。貝原は「中内さんの原点は戦争体験と思う。流通事業を通して、人々の暮らしや生命を守るという思いが人一倍強かった」と振り返っている。

2005年9月19日、中内㓛は83歳で逝去した。京都大名誉教授の森毅は、かつて中内と対談した際の印象をこう語っている。

「戦後闇市の話になった時、目がギラギラ輝き出したのが印象的だった。ああ、この人の原点なんだと思った。戦争中、南方に行き『死んだのは勇敢なやつ』と言っていた。生きて帰ったという負い目があったんだと思う」

「飢餓の記憶」という傷を燃料に

中内が遺したダイエーは、2015年にイオンの完全子会社となり上場を廃止した。そしてこの3月、関東の看板を下ろし、創業の地・関西に還る。

中内㓛の生涯から浮かび上がるのは、経営の原動力は理論ではなく、身体に刻まれた記憶という事実である。「飢餓の記憶」という傷を燃料にして中内は走り続けた。その走りは、最後には自らの王国を壊すことになったが、日本の流通に刻んだ爪痕は消えない。

価格決定権を消費者の側に引き寄せるという思想は、今日の小売業の基盤そのものとなっている。千林の30坪から始まった男の闘いは、我々の「買い物」という日常を根底から変えた。

誰にとっても「飢え」はある。幼少期の体験かもしれないし、学生時代の挫折の記憶かもしれないし、仕事での失敗かもしれない。あるいは、まだ言葉にできていない漠然とした傷かもしれない。その正体を見つめることが、経営にも、仕事にも、人生にも、深い軸を与えてくれるはずである。

主要参考資料
・ 日経ビジネス「編集長インタビュー 中内㓛氏[ダイエー会長兼社長]――売り上げ偏重から利益重視へ転換 総合スーパーは存在意義を失った」、1998年5月4日号
・ 毎日新聞「余録」、2002年1月21日付朝刊
・ 朝日新聞、毎日新聞、中日新聞ほか中内㓛氏死去関連記事、2005年9月20日付各紙
・ 朝日新聞「新風景を歩く 大阪・千林」、2006年3月11日付夕刊
・ 大阪読売新聞「[ダイエー 光と影](1)安売り 商習慣に風穴」、2014年11月20日付朝刊
・ 朝日新聞「(平成経済)第2部・昭和モデルの崩壊5 声上げ始めた消費者」、2018年2月25日付朝刊
・ 神戸新聞「秘録 ダイエー中内㓛 生誕100年に寄せて 第1部(2)」、2022年3月30日付朝刊
・ 大岡昇平『野火』新潮文庫
・ 佐野眞一『カリスマ 中内㓛とダイエーの「戦後」』新潮文庫
・ 中内㓛『流通革命は終わらない 私の履歴書』日本経済新聞社

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