ジャングルで死んでいった戦友への誓い
1945年6月、飢餓状態のまま敵陣に斬り込んだ中内は、米軍の手投げ弾の破裂で瀕死の重傷を負った。生死を彷徨う中、脳裏に浮かんだのは、裸電球の下で家族6人がすき焼きを囲む光景だった。自著『流通革命は終わらない 私の履歴書』で中内は「神戸で育った私は、死ぬ前にもう一度すき焼きを腹いっぱい食いたいと、来る日も来る日も願った」と書いている。
帰還後の中内を深く知った神戸大名誉教授の田村正紀は、中内は何か大きな決断をしようとするたび、「先生、また『野火』を読みました」と言っていたと振り返っている。大岡昇平の『野火』は、フィリピン戦線をさまよう日本兵が飢餓に苦しみ、人肉食にまで追い詰められる小説である。中内は自らの戦争体験と重ね合わせるように、その小説を何度も読み返していた。
中内自身の自著での言葉がすべてを物語っている。「私にも、食べ物への執念と、悲惨な戦争を遂行させた精神主義への反感が骨の髄まで染みこんでいる。私は日々の生活必需品が安心して買える社会をつくることを戦死した人々に誓った。それを途中で投げ出すわけにはいかない」
「よい品をどんどん安く」という社是は、マーケティングの標語ではなかった。それは、ジャングルで死んでいった戦友への誓いだったのである。
神戸の惨状とルソン島
中内のB面ともいえる知られざる内面が最も激しく噴出したのは、1995年1月17日、阪神・淡路大震災の朝だった。
神戸に店舗を集中させていたダイエーは甚大な被害を受けた。三宮では7店中4店が全壊した。中内は3日後に現地に入り、陣頭指揮を執った。そのとき従業員に放った言葉が、複数の証言として残っている。
「水がない、電気が来ていない、そんなことは理由にならん。開けられんのなら店先に弁当を並べたらええやないか。それが商人や」「被災者のために明かりを消すな。客が来る限り、店を開け続けろ。流通業はライフラインや」
船も陸路も使えないと分かると、中内は兵庫県知事の貝原俊民に電話をかけ、「自衛隊のヘリで物資を運びたい」と直訴した。貝原の仲介で、震災後2〜3日は自衛隊のヘリコプターがダイエーの店舗に食料と水を運んだ。震災から1週間で、被災地のダイエー9店、ローソン245店の営業を再開させた。貝原は「被災者の生命を何とか守りたいという強い意気込みが、一企業のために自衛隊まで動かした。まれな体験だった」と振り返っている。
中内は、神戸の惨状を見て戦争を思い出したのだろう。瓦礫の中で食べ物を求める人々の姿は、50年前のルソン島と重なったのだろう。このとき中内を動かしていたのは経営判断ではなく、戦場で身体に刻まれた記憶そのものだった。

