メーカーとの「戦争」を始めた真意
中内の功績を一言で表すなら、「価格決定権をめぐる闘いでの勝利」である。1965年に入社した小浜裕正(後にスーパー「カスミ」会長)は、中内にこう発破をかけられたのをよく覚えている。
「価格決定権をメーカーから奪い取るんや。なぜ商品の価格をメーカーが決めてくるんや。消費者を背負った小売りが決めるんや」
その言葉通り、中内は巨大メーカーに正面から挑んだ。花王に出荷を停止されたときは、社員に街の薬局で花王製品を100円で買い集めさせ、ダイエーの店で90円で売るという執念の戦いを10年にわたって繰り広げた。1964年には松下電器産業(現パナソニック)とも衝突し、ダイエーの店頭から松下製品が消えた。自社で格安のテレビを開発するなどして対抗したこの紛争は、1994年の和解まで「30年戦争」と呼ばれた。
その間にもダイエーは破竹の勢いで拡大を続けた。1972年、創業からわずか15年で三越を抜き小売業日本一に、1980年には小売業初の売上高1兆円を突破する。ダイエーはスーパーの枠を超え、ローソン、プロ野球球団、ホテル、百貨店、金融子会社まで約190社、売上高5兆円のグループを築き上げた。
南方の戦場にあった原点
だが、この拡大路線の足元は脆かった。ダイエーの拡大路線は業績の右肩上がりが前提だった。右肩上がりを前提に土地を取得し、それを担保に銀行から借り入れ、また別の土地を買う。バブル崩壊はこの手法を行き詰まらせた。1995年の阪神大震災では約500億円の損害を受け、同年2月期決算で創業初の最終赤字に転落した。グループの有利子負債は約2兆6000億円に膨れ上がった。
ノンフィクション作家の佐野眞一は、中内ダイエーの末路をこう評した。「戦後最高の成功経営者の名をほしいままにしてきた中内氏は、戦後最大の失敗経営者のらく印を押されたのである」
中内㓛の価格への執着、拡大への衝動、メーカーとの果てしない闘いの原動力は、ビジネスの現場ではなく、はるか南方の戦場にあった。
1922年大阪に生まれた中内は、1943年に出征し、最終的にフィリピン戦線に送られた。ルソン島で敗走を続ける日本軍は、補給が途絶え、飢餓によって自壊していった。中内は飢えと猛暑のなか、ミミズやアブラムシを食べて命をつないだ。611人の部隊で生き残ったのは118人だけだった。


