イラン革命で人々が望んだもの
1980年5月8日の早朝、イラン政府で初めての女性閣僚が、銃殺隊に処刑された。その前年、イランは革命の真っ只中にあった。独裁者だった皇帝(シャー)のムハンマド・レザー・パフラヴィーを失脚させ、彼の王国に代わって共和国の樹立を目指した革命である。
それは、イランの一般国民にすでに絶大な影響力を与えていた保守的なイスラム聖職者から、社会・経済的平等とジェンダー平等を求める煽動的な左派の学生や女性の権利活動家まで、社会のあらゆる層から支持された運動だった。
政敵が排除され、議論が抑圧されるのを眺めながら、皇帝の揺るぎない権力下での生活に疲れた多くの人々が、変化を望んでいた。
「当時の私にとって、この革命は独裁政治の終わりを意味していました。そのために命を捧げる覚悟はできていました」とイラン人社会学者のチャーラ・チャフィクは話す。彼女は当時、学生運動に積極的に参加していた。
チャフィクは言う。「高い山の頂上にいるような気分でした。珍しくきれいな空気を吸ったような気がしましたし、目の前に広がる澄み切った景色は、知りうるかぎりの美しい季節の到来を約束しているようでした。テヘランの通りでは、日に日に抗議デモが拡大していました。自由はすぐそこにあり、今にも手が届きそうでした」。
「イランらしさ」の喪失に危機感を覚えた人たち
革命は、皇帝と国民の距離がいかに離れていたかを露呈した。皇帝はヨーロッパ製のスーツをスマートに着こなし、魅力的な愛人や妻を何人ももち、石油収入とアメリカやヨーロッパとの緊密な関係を利用して、イランの工業化を進めた。国民は伝統を捨てて、西洋的な近代化を受け入れることを奨励された。
だが、そうした動きを性急すぎると感じる者もいた。彼らが恐れていたのは、皇帝が高級車や輸入物のフランス料理に国費を浪費しているあいだに、イランが自国らしさを失ってしまうことだった。
やがて、亡命中だったイスラム聖職者、アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーを中心に、反対派が形成されていく。ホメイニーは、外国勢力から搾取されない、宗教に基づいた、文化的に正統な国家の未来を約束した。
だが、20世紀の多くの革命がそうであったように、結局、望んだ変化を手に入れることができたのは、一部の者だけだった。「あっという間に、夢が悪夢に変わりました」とチャフィクは言う。