昔はミニスカートもはけていた

イランがこのような状況に陥るとは、誰も想像できなかっただろう。1976年、芸術家のアンディ・ウォーホルは、ファラー・パフラヴィー皇后の肖像画を描くためにテヘランを訪れたとき、女性たちが思いのままに自由に生きている様子を目にしたという。

少なくとも都会の上流階級の女性たちは、化粧をして、ミニスカートをはいていた。女性と男性は一緒にレストランや映画館に行くことができた。その頃、人工妊娠中絶が合法化された。女性も兵役に就いていた。地方議会には数百人の女性が参加していた。

アンジェラ・サイニー『家父長制の起源』(集英社コモン)
アンジェラ・サイニー『家父長制の起源』(集英社コモン)

20世紀を通じて、イランでは、女性の権利を向上させるための取り組みが次第に強化されていった。1910年までに、テヘランには50校ほどの女学校が開校した、とカリフォルニア大学サンタバーバラ校の宗教学教授で現代イランの歴史学者であるジャネット・アファリーは書いている。

その20年後には、急進的な新聞や女性誌が、一夫多妻制やベールの着用、男性の安易な離婚に反対する記事を掲載している。女性たちは協力し合って、女子教育のための資金を集めた。

1933年には、879校の女学校に5万人以上の生徒が通っていたとアファリーはつけ加えている。1978年には、大学生の3分の1が女性だった。同じ頃、イランの教師と医学生のおよそ半数は女性だった。

家父長制を覆そうとする国の「反動」

このように、何十年にもわたって女性の権利獲得に向けて一定の進歩を遂げてきた国が、わずか数年で、そうした進歩の多くを失ってしまった。なぜそんなことになってしまったのだろうかと、イラン革命以来、学者やフェミニストたちは疑問を抱いてきた。

この疑問は、世界のほかの国々にも当てはまる。現在、ヨーロッパの旧社会主義国は保守主義へと転向し、アフガニスタンではタリバンが復権している。かつて家父長制を覆そうとした社会が、いまや正反対のことを成し遂げようとしているように見える。女性の解放に向けて一歩を踏み出すたびに、反動のリスクがあるようだ。

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