人事課長に語った「工場経営の基本」
まだ戦後の混乱のさなかにあった昭和22(1947)年暮れのことである。たまたまその年は12月25日の大正天皇祭をはさんで年末まで、飛び石で休日が続いていた。そこでいくつかの製造所から、「これでは能率も悪いし、食糧難で買い出しも必要だから、正月休みを含めて1週間まとめて休みにさせてもらいたい」という要望が出た。
実施案を書類にまとめ、人事部長を兼務していた幸之助のところへ持っていった人事課長を待ち受けていたのは、厳しい叱責であった。
「そもそも工場というものはどのように経営せねばならんかがわかっておらん。いったいこの案はだれが考えたのか」
まさか他人の案とも言えず、課長は答えた。
「はい、私が考えました」
「きみは何もわかっとらん。そういうことで人事をやっているとは大問題だ。このことは、製造所の支配人にも聞いてみたのか」
「はい、2、3の方のご意見を伺いました」
「すぐに支配人を集めよ」
集まった支配人に幸之助の叱責は続いた。
「きみたちの中でだれがこれに賛成したのか。お得意先の皆さんは、年末も年始もなしにわれわれのつくったものを売ってくださっている。また、1週間という長いあいだ工場を無人にして、いざというときにどうやって対応するつもりか」
当時は治安も悪く、宿直や保安係の人が危害をこうむる事件も頻発していた。
「われわれが命をかけて守らなければならない、命の源である工場を無人にするということは、経営の根幹が全然わかっておらんということや」
お説教は、延々2時間ほども続いた。
幸之助を「30分間待たせる」ということ
昭和20年代の中ごろ、ナショナルラジオの音質について、芳しくない評判があったときのことである。東京に社用で赴いた幸之助は、代理店の人たちから、“松下のラジオは、どうも鼻づまりだ”という不満を聞かされた。さっそく幸之助は、大阪の本社にいるラジオの販売責任者に電話をかけ、命じた。
「あした、朝10時に帰るから、それまでに他のメーカーのものも含めて、ラジオの試聴ができるように準備しといてくれ」
翌日、幸之助は10時きっかりに到着した。しかし、準備はまだ整っていなかった。担当者がいささかならずうろたえぎみに準備を急ぐ中、10分経過、20分経過……。ようやく準備が完了したとき、幸之助が穏やかな口調で口にした言葉はつぎのようなものであった。
「きみ、きみはわしを30分間待たしたな。わしはだいたい1時間に何十万円かは儲けんといかん立場におるんや。したがってきみは、わしにその半分を出さんといかんで」