「やらんかったら、わからんやないか」
昭和45(1970)年3月、大阪で万国博覧会が開催されたときのこと。松下館は天平の面影を伝える優美な建物で、池の中に浮かぶように立ち、来館者は水上の長いアプローチを通って中に入るようになっていた。開館も間近に迫ったある日、幸之助は館長を呼んで尋ねた。
「きみ、人の出入りの混雑にどのように対応するんや」
「これだけの人数でこのように対応しようと思っています」
「そうか。それならやれるやろうな。けど、実際にやってみたんか」
「いいえ、やってはいませんが……」
「やらんかったら危険なところがあるかどうかがわからんやないか」
急遽、終業後にバスを手配し、何百人かの松下電器の従業員が集められた。そして、万博協会の許可を得て、幸之助立ち会いのもと、実際と同じように3回練習が行なわれた。
開館数日前のことである。
不満を直訴してきた社員に明かした「経営者の孤独」
戦後まもなくの話である。松下電器には個性の強い社員が多かったが、その中に仕事はできるが、非常に気性が激しく、喧嘩早い者がいた。
ある日、いつもの喧嘩相手の一人と仕事のことで大喧嘩をしたその社員は、自分のむしゃくしゃする気持ちを幸之助に訴えたい心境になって矢も盾もたまらなくなり、かなり夜遅くであったにもかかわらず、幸之助の所在を尋ね求めた。
幸之助は滋賀県大津の旅館に一人で泊まっていた。何の前ぶれもなく、いきなりそこへ押しかけた社員は、とにかく聞いてくれと、胸にたまっていたうっぷん、不満をあらいざらいぶちまけた。話しているうちにポロポロ泣けてきて、涙ながらに訴えた。
幸之助はその間、ひと言も口をはさまずにじっと聞いていたが、最後にぽつんと言った。
「きみは幸せやなあ。それだけ面白うないことがあっても、こうやって愚痴をこぼす相手があるんやからな。ぼくにはだれもそんな人おらへん。きみは幸せやで」
自分の遅刻に減給処分
第二次世界大戦直後の昭和21(1946)年のことである。
この年の年頭、幸之助は、“この困難な時期を乗り切るために、今年は絶対遅刻はしないぞ”という決心をした。ところが、1月4日、兵庫県西宮の自宅から、電車で大阪に出たところ、迎えに来ているはずの会社の車が来ていない。待っても待っても来ないので、とうとうあきらめて電車に乗ろうとしたとき、ようやく車がやってきた。完全に遅刻である。聞いてみると原因は事故ではなく、運転手の不注意であった。
幸之助は、その運転手はもちろん、その上司、そしてまたその上司と、多少とも責任のある8人を減給処分にした。もちろん、いちばんの責任者である幸之助自身も、1カ月分の給料を返上した。
世の中が混乱し、お互いに責任を果たそうという意識もおのずと薄れがちだった当時の風潮の中で、幸之助のこの厳しい処分は、社員の心を引き締め、混乱の時代を乗り越える原動力となった。