5人目の男
その後も柴田さんは、何度か交際相手を母親に会わせた。なぜなら、母親が気に入る相手でないと、結婚を認めてもらえないことが分かっていたからだ。
母親の出す条件は、「兄くんのことに理解がある人」。何人か母親に会わせたが、母親が気に入らず、相手のことを悪く言いまくるのを聞いているうちに、柴田さん自身も庇うのに疲れて別れるパターンを繰り返していた。4人目の交際相手を会わせた後、母親からはこう言われた。「いったい何人男を連れて来たんだ」。
「と、言われましても、兄のことを理解してくれて、母のお気に召す人を夫にするとなると、とりあえず母に会わせて、母の反応を見て先を考えるというスタイルをとっていましたから……。母は外面が非常に良い人間だったので、会った1〜2時間は良くても、その後私に悪態をつきまくり、どんどん却下されていきました」
33歳になった柴田さんは、会社に中途で入社してきた7歳年下の男性に交際を申し込まれた。柴田さんも良い印象を抱いていたため、交際をスタート。社内恋愛が認められていなかったため、その後、柴田さんは退職した。
半年後に母親に会わせると、珍しく母親はとても気に入った様子。だが、今度は珍しく父親が、「ダメ(離婚)になる前提が少しでもあるんなら、初めから(嫁に)行くな」と声をかけた。
「父は、思うところがあったのだと思います。それでも私は、兄のことを理解して協力してくれている、母が気に入っている、そして次男だ……ということだけで、自分の気持ちを重視せずに結婚に踏み切りました」
柴田さんは34歳で結婚。この結婚が、柴田さんにとって地獄の始まりだった。
毒母と毒夫
結婚した途端、夫は柴田さんを顎で使い始めた。共働きなのに、家事は一切やらない。生活費は“割り勘”。自分は家にお金を入れ忘れることがあるのに、柴田さんが1円でも不足するとネチネチ言う。常に自分優先にしないと不機嫌になり、怒鳴り出す……。
「私が正社員の間は、食費や日用品・自分の必要経費は私持ち。家賃・光熱費・向こうの必要経費は向こう持ち。結婚後に夫は出向になり、出向先では事務員を探していて、夫婦勤務OKだったので、パート事務員として働き始めました。パートになると食費や日用品代として5万円の“支給”はされましたが、アシが出た分や自分の車の維持費は自分持ち。その“支給”も、向こうがパチンコでスったときは、全く入れてもらえませんでした」
夫は柴田さんの両親の前では猫をかぶり続けた。次第に柴田さんは、夫の機嫌を損ねないことに細心の注意を払うようになる。夫がいる間は、一瞬も気が抜けない。何カ月かに1度、夫は泊まりの仕事があるが、その前日から当日までが柴田さんにとってささやかな楽しみだった。
しかしその楽しみな時間に、母親から電話がかかって来ようものなら、父親に対する愚痴や自分に対する小言など、聞きたくもないどうでもいい話で1〜2時間拘束された。だからといって電話に出ないと「兄に何かあったのでは?」「両親のどちらかが体調を崩したのでは?」などと不安になる。
自己中心的な母親と障害のある兄のために、常に他人を第一優先にして、自分自身のことは全く尊重せずに生きてきた柴田さんはこのとき、夫と母親との間で懸命に精神バランスを保とうと足掻き続けていた。
「私は、『自分がしんどい思いをすればするほど、母はいくらかでも自分を認めてくれる』『自分は兄の妹である以上、楽しんではいけない、楽をしてはいけない』と思い込んでいました。そして夫は、そんな私をうまく使う方法を見抜いていたのでしょう」
そのバランスが崩れるときが近づいていた。(以下、後編へ続く)。