完璧な“プロフェッショナル毒母”
母親は柴田さんを思いのままに動かすために、子どもの頃から容赦ない暴言を浴びせかけ続けてきた。
子どもの頃から涙もろかった柴田さんは、テレビを見て泣くことや、母親にひどい言葉を浴びせられて泣くこと、自分の気持が伝わらずに泣くことも多かった。すると必ず母親はこう冷たく言い放つ。
「簡単に泣けるのは苦労していない証拠」
だから柴田さんは、泣くのは悪いことだと思っていた。母親の前で泣かないようにし、どうしても泣きたいときはトイレで隠れて泣いていた。
柴田さんが小学校に上がると、母親は教育熱心になり、中学生になってからは、数学が苦手になった柴田さんに家庭教師をつけた。友達と遊びに行くときは、必ず相手の名前を聞き、どんな友達なのかを把握したがった。
思春期を迎えると、母親と口論になることも増えてくる。親よりも友達といる時間が増えると、母親にこう言われるようになった。
「言うことを聞かないと親子の縁を切る」
「母にしてみれば、娘が急に離れていくようでムカついたのかな……と今は思いますが、当時はとても恐ろしく感じました。高校を出てバイトをし始めても、生活できるだけの収入があるわけではありません。『追い出されたくなかったら言うこと聞け』という脅しです。でも母の恐ろしいところは、『言うこときけ』の“言うこと”を言わない。『自分で考えて誠意を見せろ』という圧力をかけてくるのです」
服装や持ち物は常に管理され、小学生の頃はもとより、中学・高校時代に友達や家族で遊びに行くときの服装も、母親に全身コーディネートされた。高校卒業後、短大に進んだ柴田さんだが、やはり母親が買ってきた服を来て通学。自分でコーディネートしたときは、朝母親に見てもらってから出かけた。
母親は、自分が気に入らなければとことんけなしてくる。柴田さんはそれが分かっていたし、怖かったため、服やバッグ、靴までも自分で選んで買うということをせず、30歳くらいまでは、母が選んだものを身に着けていた。
「最近気づいたことですが、母は、いわゆる過干渉で過保護なタイプの毒親でした。子どもに愛情を注いでいるように見せかけながら、罪悪感を植え付ける。子どもに道徳心を教えるように見せかけながら、巧みに自分(母)を尊重するように仕向ける。しかもそれに子ども(私)がまったく違和感を抱かぬように仕向けるという、完璧な“プロフェッショナル毒母”です」
柴田さんが母親のことを毒親だと気づいたのは、柴田さんが40代になってからのことだった。