障害のある兄
東北地方在住の柴田真帆さん(仮名・50代・バツイチ)は、運送業を営む41歳の父親と専業主婦の31歳の母親のもとに生まれた。柴田さんが生まれたとき、すでに11歳上には兄がいた。兄は3歳の時に高熱を出し、一命は取り留め歩行はなんとかできるようになったものの、発語がなく、両親は障害が残ったと考えた。
兄は昼夜構わず大声を上げて暴れまわり、障子を破ったりふすまに穴を開けたりし、借家に住んでいたため苦情が絶えなかった。身体の大きな赤子のような兄を連れて歩けば、周囲から白い目で見られ、心ない言葉を投げかけられることも。両親は対応に追われ、何度も引っ越しを余儀なくされた。
6人きょうだいの末っ子として生まれた母親は、3歳の時に実の母親を亡くしている。その後、実の父親は子どもたちのために後妻を迎えようとしたところ、すでに成人していた長女と次女が猛反対。後妻には家の敷居をまたがせることなく、実父もろとも追い出したという。
そのため、母親は姉や兄たちに育てられた。長女が母親兼大黒柱を担い、次女が母親、長男が父親的役割を果たしたようだ。長女が進駐軍の外国人と結婚していたため、戦後の混乱期としては希少な、冷蔵庫や洗濯機、掃除機やクーラーなどの家電がそろった大きな屋敷にきょうだい6人、それぞれの個人部屋をあてがわれ、何不自由なく暮らした。
一方、父親はもともと母親の姉(次女)の友達の彼氏だった。温厚な人柄で頭が良く、手先が器用で、人当たりが良いため、次女の友達とともに遊びに来ているうちに母親の姉や兄たちと打ち解けてしまい、次女の友達と別れたあとも家にちょくちょく遊びに来ていた。
だから母親が高校卒業間近になった頃、父親が、自分が勤めていた会社の事務を母親に紹介したのも自然な流れだった。しばらくすると父親は母親に交際を申し込み、父親29歳、母親19歳のときに結婚。次女は、「友達のお古と結婚なんて!」と反対したが、母親は、「女は16になったら結婚できるんだ!」とたんかを切って身一つで家を出てきたという。
そんな手前、約1年後に障害のある息子(柴田さんの兄)が生まれたが、母親は姉や兄たちに頼ることはできなかった。結婚から数年後には姉や兄たちとの交流は復活したものの、現在よりもはるかに障害者に対する理解がない時代だ。息子(柴田さんの兄)を連れて次女の家に泊まりに行ったときは、母親と息子(柴田さんの兄)がお風呂に入った後、次女の夫から「(障害者が入った後だから)風呂の湯を変えろ!」と怒鳴られた。
兄が11歳になる年、母親が2人目を妊娠。食事も排泄も着替えも自分のことができない兄は、公立の障害者施設に入所することになった。