日清戦争が勃発した1894年には、新宿―牛込(現在の飯田橋駅付近)間の「市街線」が開業。1904年までに御茶ノ水まで延伸した。それまでの東京の鉄道は新橋や上野など江戸以来の市街地から外れた位置にターミナルを置いていたが、甲武鉄道の市街線は初めて都心方面に乗り入れた鉄道となった。
蒸気機関車から電車運転へ、5~10分間隔で運行
またエポックメイキングとなったのが1904年に開始された電車運転だった。当時の鉄道は蒸気機関車による運転が基本で、電車は市内交通を目的とした路面電車に限られていた。日本初の路面電車は1895年に京都で開業したが、東京で路面電車が開業したのは少し遅れて1903年のことだった。甲武鉄道は路面電車の開業とほぼ同じタイミングで電車運転を始めたのである。
電車運転が始まる以前、甲武鉄道の列車は蒸気機関車が5~8両の客車を牽引していた。約30分間隔の運行で、1列車あたりの定員は250~400人だったが、定員に達する列車は3分の1にすぎなかった。そこで甲武鉄道は乗客を増やすには連結車両を減らしても運転本数を増やした方がいいと考え、1両編成(定員約30人)の電車を5~10分間隔で運行することにした。
2つの大きな街道に挟まれて南北に拡大し…
1906年の運行形態を例に挙げると、中野―御茶ノ水間を最短6分間隔、約28分で結んでいた。現在の中央・総武線各駅停車の中野―御茶ノ水間の所要時間は22分、日中は約5分間隔だから、いかに時代を先取りしていたかが分かるだろう。
新宿駅では電車運行の開始に合わせて初めての大規模な改良工事が行われている。この工事では青梅街道に面した青梅口ホームと甲州街道に面した甲州口ホームの2カ所のホームが設置された。つまり新宿駅に甲武鉄道の同じ路線のホームが2カ所あったことになる。
これは当時の電車が1~2両での運転と短かったため、1つの長いホームを作るよりも、短いホームを2つ作って2回停車したほうが、安上がりかつ乗客にも便利という判断があったようだ。北は青梅街道、南は甲州街道に挟まれる新宿駅は、おのずと南北に勢力図を延ばしていくことになる。新宿駅が複雑化していく原点がここにあったと言えるだろう。
中央線と山手線が交差したことでラッシュが始まる
先駆的な取り組みを進めた甲武鉄道だったが、鉄道国有化政策により1906年10月に政府に買収され、官設鉄道(国鉄)中央線となる。また品川線を運行していた日本鉄道も同年11月に買収され、1909年の池袋―田端間開業と同時に山手線の名称が与えられた。
さらに同年12月には山手線でも電車運転が始まり、新宿駅は中央線と山手線が交差する唯一の電車ターミナルとなった。1909年の新宿駅の1日平均乗降人員は7000人を超えており、開業から24年で乗客数が100倍になった計算だ。