1910年に大蔵省専売局の煙草工場が新宿駅西口に移転すると、夕暮れ時に白いエプロン姿の女工たちが三々五々、駅に向かうようになった。これが新宿駅のラッシュアワーのはしりと言われる。また明治末には男性客が電車通学する女学生にちょっかいを出すことが問題視され、日本初の「女性専用車両」が導入されている。

郊外移住が進み、通勤客が1日約3万人に

大正時代に入ると新宿駅の利用者は本格的に増加を始める。1914年に東京駅が開業すると、中央線は1919年に東京駅に乗り入れる。中央線は名実ともに都心直通路線となった。開業当初の中央線、山手線は朝も昼も同じ間隔で運行されていたが、大正半ばごろから朝を中心に混雑時間帯の運行本数を増やすようになった。朝ラッシュの誕生である。

利用者が急激に増えた背景には、都心の人口密集と生活環境の悪化から逃れるため郊外に転居する「郊外化」があった。移住先には都心に直通して便利な中央線や山手線の沿線が選ばれたことから、1922年には新宿駅の1日平均乗降人員は約3万人まで増加した。

その流れを加速させたのが1923年に発生した関東大震災であった。震災を契機に安全な郊外に移り住む人が増加し、市街地は山手線を越えて広がった。この結果、大正半ばには2両編成で運行されていた中央線、山手線が大正末には5両編成に増強されている。

震災は新宿駅も直撃した。当時、それまで甲州街道側にあった駅舎を青梅街道側に移設する工事を行っていたが、震災により建設中の駅舎が大破。その教訓をふまえて設計を変更したため、完成は1925年にずれ込んだ。

当時の新聞は「死物ぐるいの新宿駅」と紹介

工事完成までの間、一部の通路が閉鎖されるなどしたため新宿駅の混雑はすさまじかったようだ。1924年11月27日付読売新聞に「プラットホームが変わって死物ぐるいの新宿駅」と題した記事が載っている。この中で新宿駅長は「地下道の出入口を一定し色分けのラインを引いてマゴツカない様にしたいと考えている」と語っており、今も昔も変わらない混雑対策の苦労を感じさせる。

新たな新宿駅はどのようなものだったのか。1925年3月24日付読売新聞は「中央山の手の電車ホームと中央線の汽車ホーム、それに貨物線のホームを合し四本のプラットホームが並び、いずれも一端は跨線橋に他の一端は地下道へ続き三カ所の停車場出入口に連絡し、各プラットホームの中央にエレベーターがあり、地下貨物専用道と上下の運搬ができる様になっている」と解説している。

跨線橋につながる出口は現在の南口、地下道につながる出口が現在の東口と西口だ。つまり地下道とは現在も西口と東口を結んでいる東西自由通路(旧北通路)である。

大正14年に落成した新宿駅本屋正面(現在の東口駅舎付近)『新宿駅100年のあゆみ』(弘済出版社)より