今の新宿駅の原型ができたのは1925年

一方「地下貨物専用道」は、文字通り貨物を運ぶための業務用の通路だったが、新宿駅の混雑が激しくなり、北通路を通り抜けるだけで5~6分かかるような状況となったことから1933年に旅客用に転用された。終戦間もない1947年には小田急線との連絡改札を設置。1958年には中央東口が開設された。これが現在の中央地下通路である。

どちらもその後、幾度の拡幅工事が行われており当時の姿のままではないが、新宿駅の原型は1925年の駅舎建て替え工事によって作られたことが分かるだろう。

とはいえこの頃の新宿駅は「交通地獄」と呼ばれるほど混雑していたものの、そこまで複雑な構造ではなかったので、駅で迷うといった評判はなかったようだ。新宿駅の複雑化は高度経済成長期の利用者の爆発的増加と、それに対応した新路線の開業により加速していく。

新宿駅に停車する中央線の快速列車
筆者撮影
新宿駅に停車する中央線の快速列車

1日平均乗降人員は開業から80年で1万倍に

新宿駅複雑化の第一段階として駅の立体化が挙げられる。まず1959年に開業したのが地下鉄丸ノ内線だ。地下鉄開通とともに新宿駅から新宿三丁目駅まで約550mの自由通路「メトロプロムナード」が完成し、改札外の地下道で駅の東西が結ばれた。また国鉄は1961年、東口駅舎の建て替えに着手し、地下3階、地上8階の駅ビルとして1964年に開業した。これが現在も使われている4代目駅舎である。

西口の変化はさらに目まぐるしかった。新宿駅の西口には明治時代に設置された淀橋浄水場があったが、これを移転して跡地を開発する「新宿副都心計画」が1960年に都市計画決定されたことで開発は加速していく。

京王は1963年に駅を地下化し、小田急も1964年に地下ホームを新設すると、同年に京王百貨店が、1967年には小田急百貨店が開業。またこれらを結ぶ「新宿西口立体広場」が1966年に完成したことで、現在の西口の風景が形作られた。

新宿西口立体広場『新宿駅100年のあゆみ』(弘済出版社)より

時は高度経済成長まっただ中。新宿駅の1日平均乗降人員は1955年の約31万人から1965年は約78万人までに膨れ上がり、10年で倍以上に増加した(開業から80年で1万倍である!)。そうなれば混雑が激化するのは必然で、朝ラッシュ時間帯の乗車率は300%に達していた。

窓ガラスが毎日100枚近く割れるほど

ついに1961年1月には、中央線で連日朝ラッシュ時間帯に大幅な遅延が発生し、大混乱を招いた。満員電車に乗り切れない人が続出し、それでも無理やり乗り込もうとする人で停車時間が長引き、1駅に10~15分停車する列車も出るありさまだった。

多くの通勤客でごった返すホームの様子『新宿駅100年のあゆみ』(弘済出版社)より

例えば、同年1月20日の中央線では、ラッシュ時間帯は本来2分間隔運転であるところ、ピーク30分間に東京駅に到着した列車はわずか5本。さらに激しい混雑によって電車の窓ガラスが毎日100枚近く割れて、負傷者も発生した。