「カニッツァの三角形」というだまし絵を見たことがあるだろうか。その絵を見ると人間の脳は存在しない三角形を見出すことになる。『人体大全』(桐谷知未訳、新潮社)を書いたノンフィクション作家のビル・ブライソン氏は「錯覚を起こすのは、脳があらゆる方法であなたを助けるよう設計されているからだ。逆説的に言えば、脳は驚くほど当てにならない」という――。
※本稿は、ビル・ブライソン『人体大全』(桐谷知未訳、新潮社)の一部を再編集したものです。
水と脂肪とタンパク質でできた驚異の物体
宇宙でいちばんすばらしいものは、あなたの頭の中にある。
宇宙空間を隅から隅まで旅して回ったとしても、あなたの耳と耳のあいだに収まっている1.3キログラムのぶよぶよした塊ほど、並外れていて複雑で高機能なものは、きっとどこにも見つからないだろう。
紛れもない驚異の物体にしては、ヒトの脳はいかにも魅力に乏しい。なにしろ、その75〜80パーセントは水で、残りはほぼ同量の脂肪とタンパク質でできている。そういう3つのありふれた物質が協力し合って、わたしたちに思考や記憶や視覚や審美的な鑑賞力やその他もろもろを与えてくれるというのは、なかなか驚くべきことだ。
もし自分の脳を頭蓋骨の中から持ち上げてみたとしたら、あまりにも柔らかくて、おそらくびっくりするだろう。脳の硬さは、豆腐や柔らかいバターや少し固めすぎたブラマンジェなど、さまざまにたとえられてきた。
あなたの脳こそがあなたそのものである
脳には重大なパラドックスがある。世界について知っているすべてのことは、世界を直接見たことのない器官によってもたらされている。
脳は、地下牢に閉じ込められた囚人のように、ひっそりとした暗がりに存在する。脳自体には痛覚受容体はなく、文字どおり無感覚だ。温かい太陽の光も、柔らかいそよ風もまったく感じていない。
脳にとって、世界はモールス信号のトンツー音のような、単なる電気パルスの流れだ。そして、その淡々としたおもしろみのない情報から、あなたのために、生き生きとして立体的で官能を刺激する宇宙をつくっている――そう、文字どおりの意味で、つくっている。
あなたの脳こそが、あなただ。その他すべては、配管や足場にすぎない。脳はあなたそのものである。