太平洋戦争を感情的に論じても意味がない

昨年、筆者はプレジデントオンラインに、「『なぜ日本は真珠湾攻撃を避けられなかったのか』そこにある不都合な真実」という記事で、日本の太平洋戦争の原因を進化政治学(evolutionary political science)の視点から論じた。

この論考では、多くの日本人が、太平洋戦争や日中戦争、あるいはそれに至る戦前の日本外交が「道徳的に間違っていた」と教えられてきたことを指摘した。歴史を道徳で論じるのは思考停止に他ならない。そうではなく、われわれはなぜ、いかにして任意の歴史的事象が起きたのかを客観的、理性的、科学的に考察する必要がある。

そこで本稿では「進化政治学」に依拠して、日中戦争がなぜエスカレーションしたのか、という歴史のパズルを解きほぐしてみたい。

日中戦争中の1938年10月、武漢に迫る日本軍とその近くの町で発砲する歩兵
写真=ullstein bild/時事通信フォト
日中戦争中の1938年10月、武漢に迫る日本軍とその近くの町で発砲する歩兵

1937年7月7日、北平近郊の盧溝橋付近で日中両軍が衝突した(盧溝橋事件)。7月9日、近衛内閣は現地解決を促し、軍交渉を通じた停戦協定により事態は収束するかに思われたが、陸軍中央では対中制裁の機運が高まり、事態はエスカレーションの様相を呈し始める。

7月11日、近衛内閣は不拡大方針を撤回して、「今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし」と、中国側の悪意を誇張する華北派兵声明を発表した。またその裏で近衛は首相官邸に政・財・言論界の代表を招待し、華北派兵への「国論の統一」を要請して、拡張的政策への支持を得ることに成功した。

同時期の状況をより良く理解する上で、この時各界代表の会合に出席していた、石射猪太郎東亜局長の回想が有益であろう。

官邸はお祭のように賑っていた。政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ。事件があるごとに、政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近(風見書記官長:筆者注)の考えから、まず大風呂敷を広げて気勢を示したのだといわれた。冗談じゃない、野獣に生肉を投じたのだ。

上記の石射の回顧録を検討した上である歴史家の筒井清忠は、「風見は、近衛の先手論の先手を取ったのか、危険な戦争型ポピュリズムの道に日本を導いた」、「現地の和平の努力を『新聞記者出身で』『ジャーナリズムの利用が上手な』『風見書記官長』を軸とする内閣が潰して戦争を拡大させていった面は、やはり否定できない」と論じている。