排外的なナショナリズムを抑えられなかった日本政府
12月13日午後、南京陥落を受け日本中は歓喜の渦に包まれた。
12月22日、広田外相はディルクセン駐日ドイツ大使(Herbert von Dirksen)に新たな和平四条件を提示したが、それには満州国の正式承認と対日賠償という中国にとって容認し難い条件が含まれていた。
蔣介石が敗戦国のような扱いを受け入れるとは思われないので、相手のメンツを保ちつつ和平交渉を進めるべきだったが、日本は飛躍的に条件をつり上げたのである。
つり上げられた和平条件は12月26日ごろ、中国側に伝わり大きなショックを与えた。ところが蔣介石はそれに速やかに回答しなかったので、日本側は回答期限を1938年1月15日に定めた。期限前日の1月14日、新たな和平条件の詳細を説明してほしいとの中国側の回答が、ディルクセンを通して日本側に伝わった。
だがそれを近衛や広田は、中国側が講和に誠意を持たず遷延に出ているものと判断した。結局、期限内に回答は得られず交渉は打ち切られた。1938年1月16日、近衛は「対手とせず」声明を発し国民政府と断絶して、傀儡政権の中華民国臨時政府に肩入れすることを説くに至る。
しかしなぜ日本政府は「対手とせず」声明という、国民政府の悪意を誇張するナショナリスト的神話を掲げ、交渉条件つり上げや交渉打ち切りといった失敗を犯したのだろうか。
その一つの説明は、この時日本政府は湧き上がる国民の排外的ナショナリズムを既にコントロールできなくなっていたというものである。
ナショナリズムは諸刃の剣である。当初、排外的ナショナリズムを煽って好戦的世論を焚きつけたのは近衛だったが、この期になるとそれが跳ね返ってきて、政府の対外政策の自律性が脅かされるに至っていたのである。
政治的な党派性の根底にある「部族主義的メカニズム」
なぜ、近衛内閣は国民の排外主義的ナショナリズムをコントロールできなくなってしまったのだろうか。
この問いを答えるうえで重要な役割を果たすのが、部族主義の心理メカニズム(部族主義的メカニズム)という進化論的な知見である。
人間の脳は直感的にわれわれ(we)と彼ら(they)をわけ、彼らよりわれわれをひいきするように設計されている。こうしたシステムが部族主義的メカニズムであり、それは国家レベルではナショナリズム、民族レベルでは自民族中心主義(ethnocentrism)といった政治学的現象を生みだす。
一部の自然科学的知見は、ナショナリズムやエスノセントリズムが人間に備わった普遍的特性であることを明らかにしている。たとえば、幼児は言語の手掛かりを頼りに内集団のメンバーを特定し、彼らに対して好意をいだく。
また、潜在的連合テスト(implicit association test)は大人、子供、そして人間と同じ霊長類のサルにおいて、外集団のメンバーに対する広範なネガティブな連合があることを明らかにしている。
あるいは政治的イデオロギーについていっても、心理学者ジョナサン・ハイトらが論じているように、そもそもリベラルや保守といった党派性はそれ自体、部族主義に由来するものである。
すなわち、リベラルはリベラル陣営という部族主義的な感情に従って動いており、保守もまたしかりということになる。ここからわかることは、部族主義は時としてイデオロギーを凌駕して、内集団を結束させるということである。