戦前の日本は、なぜ負けるとわかっていて対米戦争に踏み切ったのか。名古屋大学名誉教授の川田稔氏は「内大臣の木戸幸一は、対米戦争を避けるために陸軍を統率できる東条英機を首相に推したと語っている。しかし、それは皮肉な結果になった」という——。
※本稿は、川田稔『木戸幸一』(文春新書)の一部を再構成したものです。
東条英機の首相に推した内大臣・木戸幸一
近衛文麿の「突然の総辞職」によって、後継首班を決めざるを得なくなった。その選定をリードしたのが内大臣である木戸幸一だった。
1941年10月17日、後継首相を検討する重臣会議が開かれた。出席者は、木戸幸一内大臣、清浦圭吾、若槻礼次郎、岡田啓介、広田弘毅、林銑十郎、阿部信行、米内光正(いずれも元首相)、原嘉道枢密院議長の9人だった。
そして、木戸のリードで、後継首班に東条英機陸相を奏薦したのである。会議の席上、木戸は次のように述べている。
「結局今日の癌は、九月六日の御前会議の決定である。東条陸相とかなりその点について打割った話をしてみると、陸軍といえども海軍の真の決意なくして、日米戦争に突入すること不可能なるは、十分承知している。……そうすれば、この事態の経過を十分知悉し、その実現の困難なる点も最も身をもって痛感せる東条に組閣を御命じになり、同時に……御前会議の再検討を御命じになることが、最も実際的の時局拾収の方法であると思う。」
ここで注意を引くのは、木戸が、対米開戦決意を含む9月6日御前会議決定の再検討を主張したことである。
木戸の意見に反対はなく、広田、阿部、原が賛意を示した。なお、若槻は宇垣一成を推したが、同意はえられなかった。