戦前、アメリカの「国民総生産」は日本の12倍で、国力差は圧倒的だった。それなのに、なぜ日米戦争が起きたのか。名古屋大学名誉教授の川田稔氏は「キーパーソンとなったのが木戸幸一内大臣だ。木戸は戦争を避けるためには軍部を動かす必要があると考え、あえて陸軍を束ねる東条英機を首相にした。しかしその選択は裏目に出た」という——。

※本稿は、川田稔『木戸幸一』(文春新書)の一部を再構成したものです。

アメリカ空軍機の近くに零式が駐機している
写真=iStock.com/Hirkophoto
※写真はイメージです

東条内閣、すぐさま国策再検討に着手

東条首相は、組閣するや、陸軍省軍務局に指示して国策再検討項目を作成させ、陸海軍の協議をへて決定。1941年10月18日夕刻の初閣議後、関係閣僚に、それぞれ関係項目について検討を要請した。参謀本部と海軍軍令部も検討に入った。そして、10月23日から30日まで、連日のように大本営政府連絡会議で議論がおこなわれる。

参謀本部では、19日から検討を始め、21日には、「十月末日に至るも我が要求を貫徹し得ざる場合には、対米国交調整を断念し開戦を決意す」、との結論に達した。10月末日まで1週間あまりの外交交渉を認め、それ以後は実質的に交渉を打ち切るべきだとするものだった。

東郷茂徳外相はじめ外務省は、国策再検討の動向にかかわらず、対米交渉を続行すべきとの意見であり、武藤ら陸軍軍務局や海軍もほぼ同様だった。

ただ、武藤も、日米交渉において日中戦争解決条件の一定の限度は譲れないとの姿勢だった。一定の限度とは、内蒙・華北の資源確保とそのための駐兵を意味していた。