なぜ日本はアメリカとの太平洋戦争に踏み切ったのか。名古屋大学名誉教授の川田稔氏は「陸軍側は、海軍側に『戦争に自信なし』と明言させることで、開戦を回避したいと考えていたようだ。しかし、海軍はそれを言い出せず、陸軍も引くに引けなかった」という——。

※本稿は、川田稔『木戸幸一』(文春新書)の一部を再構成したものです。

1941年12月7日真珠湾攻撃/日本機の攻撃を受ける戦艦「ウェストバージニア」(左)と「テネシー」。
写真=近現代PL/アフロ
1941年12月7日真珠湾攻撃/日本機の攻撃を受ける戦艦「ウェストバージニア」(左)と「テネシー」。

中国駐留軍をめぐる近衛首相と東条陸相の対立

1941年(昭和16年)10月2日、ハル国務長官から覚書のかたちで、9月25日の日本側提案に対するアメリカ政府の回答が示された。それは、三国同盟問題では日本側の姿勢を評価しながらも、より明確な回答を求めていた。

さらに、中国に軍隊を駐屯させる要望は容認しえず、日本軍の仏印および中国からの撤退を明確に宣言する必要があるとのことだった。また、日中間の地理的条件による経済的特殊関係の承認についても受け入れられないとしていた。

このハル覚書をうけ、10月5日、東条英機陸相は近衛文麿首相と会談した。東条は、アメリカの態度は、駐兵拒否、三国同盟離脱であり、これらは譲れないと述べた。

近衛は、駐兵が問題の焦点だ、「一律撤兵」を原則的には受け入れ、「資源保護などの名目で若干駐兵させる」ことにしてはどうか、との意見を示した。

東条は、それでは「謀略」となり「後害」を残す、として反対した。近衛の原則一律撤兵・実質駐兵論に対して、東条は不確かなもので容認できないとしたのである。

同日、海軍でも首脳会議が開かれた。そこで岡軍務局長の提案により、交渉継続の方向で近衛首相が東条陸相と会談し、交渉期限の延長や条件の緩和を話し合うことを、首相に進言することとなった。

翌6日の海軍首脳会議でも、「撤兵問題のみにて日米戦うは馬鹿なことなり」として、条件を緩和してでも外交交渉を続ける方針が申し合わされた。原則的には「撤兵」とし、治安維持のできたところから撤兵する、とされた。