すなわち、御前会議決定を白紙に返すために、その方向で陸軍を統率しうる東条を首相に奏薦したというのである。しかも東条自身、御前会議決定を「癌」だとして、木戸の考え(決定再検討、白紙還元の方向)に同調していた。

なお、東条が、海軍に自信がなければ戦争はできないとの判断に傾いてきたのは、武藤章軍務局長の説得によるものだった。

この選択は木戸にとっても危険な賭けだった

木戸が東条を選択したのは、よくいわれているように、単に天皇の意向を尊重し陸軍を統率できる人物だったからだけではない。それに加えて、すでに東条が御前会議決定の白紙還元に同調していたからだった。木戸は白紙還元による対米戦争回避を意図していたのである。

ただ、この選択は木戸にとっても危険な賭だった。

木戸が望んだ、東条内閣下での白紙還元による戦争回避は、海軍が対米戦への「自信ある決意」を示さないことを前提としていた。したがって、もし海軍の態度が変われば、東条ら陸軍の本来の主張すなわち御前会議決定(開戦決意)のラインに回帰する可能性をもつ選択だったからである。

なお、木戸は戦後、東条を近衛の後継首班に推した理由として、「東久邇さんという意見もあったがね、僕はその時に、要するに戦争は避けられないと思っていたんだ。……そして戦争すれば負けると思ったんだ」。だから、敗戦によって「皇室が国民の怨府になる」ことを避けるため東条にした、と回想している。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」

しかし、この回想は、右の手記の記述と必ずしも整合性がとれていない。手記では、東条が9月6日御前会議決定の再検討(白紙還元)に賛成していたから、後継首班に推したとしている。

当時木戸は何とか対米戦を回避しようとしており、そのため、御前会議決定の再検討に同調し、しかも陸軍を統率しうる人物として、東条が妥当と判断していたのである。

この(1941年)10月の時点では、木戸は必ずしも戦争は避けられないとみていたのではなく、対米戦回避に力を傾けており、東条ならその可能性があると考えていたことは間違いない。

この手記は東条組閣の翌月に書かれたものであり、事実はこちらに近かったのではないかと推測される。木戸は戦後さまざまな回想を残しているが、その資料評価には注意を要するだろう。

10月20日、木戸は昭和天皇に、「今回の内閣の更迭は真に一歩を誤れば不用意に戦争に突入することとなる虞れあり。熟慮の結果、これが唯一の打開策と信じたるがゆえに奏請した」旨を言上した。これに対して昭和天皇は、「いわゆる虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」、と答えている。