後藤新平:1857~1929。須賀川医学校卒。台湾総督府民政長官、逓信大臣、鉄道院総裁、内務大臣、東京市長などを歴任。ソ連との国交樹立にも関わった。
<strong>政治学者 御厨 貴</strong>●1951年、東京都生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学法学部教授、政策研究大学院大学教授を経て東京大学先端科学技術研究センター教授。専門は日本政治史。96年『政策の総合と権力』でサントリー学芸賞、97年『馬場恒吾の面目』で吉野作造賞を受賞。
政治学者 
御厨 貴

1951年、東京都生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学法学部教授、政策研究大学院大学教授を経て東京大学先端科学技術研究センター教授。専門は日本政治史。96年『政策の総合と権力』でサントリー学芸賞、97年『馬場恒吾の面目』で吉野作造賞を受賞。

ステイツマン、科学的政治家、大風呂敷。後藤新平はさまざまな言葉で形容されてきた。それは一つの呼び名では言い切れない型破りな政治家だったからだ。

象徴的な事例は彼の日記だろう。政治家の日記はふつう歴史研究に欠かせない資料となる。たとえば“平民宰相”と呼ばれた原敬の日記は日本政治史での最重要文献だ。その価値の高さから出版もされている。一方、後藤の日記はほとんど研究対象にならず、活字化もされてこなかった。なぜなら記述がきわめていい加減だからだ。たびたび日付が欠けているし、記載も長かったり短かったりする。時にはスケッチブックを日記として使うこともあった。驚くことに異なる筆跡も見受けられる。おそらく書生に口述筆記をさせることがあったのだろう。

後藤の仕事は多岐にわたる。台湾総督府民政長官、南満州鉄道(満鉄)総裁、逓信大臣、鉄道院総裁、東京市長などを歴任した。だが結局、総理大臣にはなれなかった。ひとつの日記帳を使い続けた原敬が、政党政治家としての道をひたすら歩み、総理になったのとは対照的だ。

後藤は政治家としてブレがあったから総理になれなかったのだろうか。それは違う。後藤は民意に迎合せず、国益を第一に考えた計画を立案し、遂行できる「プロジェクト型の政治家」だった。さらにいえば国家の将来像、グランドデザインを描ける人物だった。

とにかくスケールの大きい仕事を次々と行った。明治39(1906)年に満鉄を設立したとき、後藤は2億円の資本金を集めている。1億円は政府出資、残りはロンドンの社債市場で調達した。当時の日本の歳入は5億円超だから、現在の価値では15兆円以上。日本最大の株式会社をいきなりつくったのだ。

東京市長の在任時には「8億円計画」という都市改造プランをまとめている。このとき国家予算は約15億円。「大風呂敷」だと散々に批判されたが、この後、関東大震災が起き、後藤は計画を13億円に拡張する。この結果、5億円超の復興計画が実施された。東京の幹線道路の多くは後藤が立案、敷設したものだ。

さらには鉄道院総裁として東京~下関間の「広軌化」を主張した。日本の鉄道路線は国際標準の「標準軌」よりもレールの間隔が狭い「狭軌」だ。後藤はスピードや輸送力の面で不利だとして改軌を訴えた。後藤の構想ははるかのちに、「新幹線」として実現している。その先見性には舌を巻くばかりだ。

大衆は必ずしも国益を第一には考えない。むしろ身近な利益を重視する。改軌論争でも、原敬率いる立憲政友会は、「広軌化より支線の増設を優先するべきだ」と後藤に反対し、実現を阻んだ。デモクラシー(民主主義)とは民意を調達する政治だ。政体としては「万能薬」なのだが、国益を第一に考えると必ずどこかでぶつかってしまう。

後藤はデモクラシーに異を唱えた政治家だった。その論理を正当化するのは難しく、結局、総理にはなれなかった。だが議会を無視して突っ走る政治家が、当時総理として成功できたとは思えない。後藤が「プロジェクト型の政治家」として大成したのは、児玉源太郎や桂太郎、山本権兵衛といった強力な軍人政治家が後ろ盾となり、調整に動いたからだ。「ナンバーワン」ではないが、「オンリーワン」というべき政治家だった。

民意には迎合しなかったが、大衆を見下していたわけではない。たとえば後藤は、「自治」の重要性を説き、ボーイスカウト運動を日本に持ち込んでいる。また晩年には「政治の倫理化」を訴え、全国を講演して回った。持論のPRのため自費で小冊子を100万部も刊行している。大衆に訴えることの重要性を最も早い時期から意識していて、国民の人気も高かった。「民意には迎合しないが、民意を大切にする」というユニークなアンビバレンスがあった。