生き残るためには変わらなければ
日本屈指の実業家・渋沢栄一翁を身近に感じたのは、1970年の大阪万博でコンパニオンをしていたときです。私が務めた国連館の館長が、渋沢翁の従甥に当たる方でした。そんな縁もあって、その後は折にふれ、渋沢翁について書かれた文献や人伝えや講演での話を心にとどめるようにしています。
渋沢翁は江戸末期に埼玉県の豪農の長男として生を受けました。一時は、時代の風に煽られ、尊皇攘夷に身を投じるのですが、やがて幕府方の一橋家に仕え、慶応3(1867)年、パリ万博に出席する徳川昭武に随行します。そして、異国の地で昭武の兄である将軍・慶喜が大政奉還したことを知りました。
時の権力者だった主君が、一夜にしてその座から滑り落ちてしまう。ありえないことが現実に起きたわけです。しかしそのとき、渋沢翁は「新しい時代に生き残るには、変わらなければならない」と痛感したことでしょう。
フランスで西欧の技術や制度を目の当たりにしたことで目をひらかされた彼は「日本は三等国であってはならない。一等国にならなければ、世界から置き去りにされてしまう」と思ったはずです。そこにこそ渋沢翁の帰国後の見事な変身ぶりの“原点”があります。
私は50人の従業員を抱える大阪の菓子問屋に生まれました。大学卒業後、通訳などを経験し、73年に縁あって、老舗・銀座テーラーの創業家である鰐渕家に嫁ぎました。2人の娘にも恵まれ、生活は順風でしたが、84年に義父で創業者の鰐渕正志が他界すると、会社のバランスが崩れ始めました。
やがてバブル経済が崩壊し、夫である2代目社長・正夫の放漫経営のツケが回ってきました。それを清算するには、社内の思い切った改革が必要でした。崖っぷちの会社を何とかしたいと、92年、専業主婦から初めて本格的な仕事に取り組むことになりました。