まず、男性だけをターゲットにしていたテーラーの世界に婦人服を持ち込み、新しい市場を開拓しようとしました。生き残るには、何としても社内改革をしなければいけないという危機感があったからです。しかし、古参社員からは「婦人服を始めたりすると格が落ちる」などと猛烈な反対を受けました。でも、それで怯んではいられません。

渋沢翁も「反対者には反対者の論理がある。それを聞かないうちに、いきなりけしからん奴だと怒ってもはじまらない。問題の本質的な解決には結びつかない」と語っています。私も「反対するなら、私の考え以上の提案をしてほしい」と訴えました。

結局、1人の裁断師が「奥さんがそこまで言うなら……」と同意してくれ、私自身も度胸を据えて、2人の娘が通う学校の母親たちに売り歩きました。それが業績回復の原動力になり、いまは当社の主力事業になっています。このときの経験は、周囲が反対するときこそ、実行すべきという信念になりました。

さて、渋沢翁は明治2(1869)年、新政府の招きで大蔵省に入り、3年後には大蔵大丞という要職に就きます。けれども藩閥政治に嫌気がさし、翌年には退官して実業家に転身しました。そして、第一国立銀行や王子製紙、東京ガスなど、いまに残る会社を次々と興していったことはよく知られています。

その際、渋沢翁が経営の基盤に置いたのが『論語』でした。それに基づく実践は私より公を重視する国づくりです。当時は富国強兵の時代でしたから、それを経済で実現することをめざしました。彼の凄さは会社の所有にこだわらず、自分が「よし!」と見込んだ発展途上の人たちに後事を託して、経営者に育て上げたことでしょう。

つまり彼にとって、会社づくりイコール人づくりなのです。82歳になってから2年半の歳月を費やして著した『論語講義』という本の中で、渋沢翁は「会社をうまく経営するにあたって、いちばん必要な要素は会社を切り回す人材である。人材が得られないならば結局その会社は失敗する」と記しました。

2000年に3代目社長に就任してから、私が手がけたのも教育事業です。老舗化しつつある私たちテーラー業界にとって後継者育成は喫緊の課題。世界に誇る日本の紳士服づくりの技術を伝承していかなければなりません。そこで「日本テーラー技術学院」を立ち上げ、若い人たちの育成に乗り出したのです。