迷惑をかけたくないから、文明は発展してきた
いやはや、「高齢ドライバーによる交通事故」が相次いでいます。医療の進歩と各種保険システムの整備により、「人生100年」などと言われる長寿を獲得した結果、かような出来事に帰結するとはご先祖様たちは想像しなかったはずです。
無論、すべての高齢ドライバーが事故を起こしているわけではありません。そして、事故の原因だって1つではありません。とある方は、「高齢者でも運転しやすくなった車のせいだ」などと言っていましたが、確かにそれは非常に皮肉な一因かもしれません。文明の躍進は善のはずなのに、それがマイナスをもたらすとしたらワットもエジソンも泣いてしまうでしょう。
ここで、1つの仮説を述べてみたいと思います。高齢者の交通事故、いや、それだけではなく近頃話題となっている幼児虐待然り、引きこもりの子供が被害者になった事件然り、すべての原因は「現代の日本人が迷惑をかけるのが下手になったから」ではないでしょうか。
文明は、一言でいえば「迷惑の緩和化」を原動力として躍進してここまで発展してきました。たとえば動力となるエンジンは「時間に遅れる」という迷惑を解消するために開発されたと言えますし、各種通信手段もやはり「連絡が遅れると迷惑だ」という考え方をベースに進化してきました。いわば我々は、「人様に迷惑をかけない」ことを共通認識に、文明を充実させてきたのです。
なんでも自分でやろうと思うな!
少なくとも20世紀までは、「迷惑」を唾棄(だき)することが約束事項だったと言っても過言ではないと私は考えています。わが師匠・立川談志は、「すべての行動の原理は不快感の解消だ」と定義しましたが、なるほど迷惑とは不快感そのものであります。
翻って、先に挙げた現代の病理について考えてみましょう。「高齢ドライバーの交通事故」という捉え方ではなく、「高齢になっても運転せざるを得ない社会環境」という具合に俯瞰で見つめてみるのです。
すると、「年を取って足腰が弱くなったからといって、人様に迷惑をかけてはいけない。病院ぐらい自分で運転して行かなければ」という意識がその前提になるはず。そうした意識がエスカレートした結果が、大惨事をもたらすと言ってもいいでしょう。
「幼児虐待」にしても「引きこもりの息子が被害者となる事件」にしても、「子育てで人様に迷惑をかけてはいけない。自分でなんとかしなければ」という考え方が強くなり過ぎた結果、ストレスが募ってあのような悲劇を招いたとも言えましょう。
「迷惑をかけてはいけない」という価値観に凝り固まった挙句、結果として「もっと大きな迷惑をかけてしまっている」というパラドックスが引き起こされているわけです。