つまり、筋トレが足りていない
ここで私は、極論的に「だからどんどん人様に迷惑をかけよう」などと言いたいのではありません。20世紀が「迷惑をかけないシステム作り」を目指して発展したのならば、21世紀に求められるのは「他人の迷惑を上手にシェアできる社会」かもしれないと、未来の可能性を述べたいだけであります。
では、どんな展開になれば、そのような許容社会が実現するのでしょうか?
私は自分の限界を悟ることが肝心と考えます。
「このラインを越えたら自分はダメだ」という限界を察知すれば、その臨界点を超える前にSOSを発信し、窮地は救われます。具体的に言えば、自分の酒量を日頃からチェックしている人ならば、「これ以上飲んだら吐いてしまう」ということを分かっているため、飲み過ぎて居酒屋で戻してしまうような失態はまずないはずです(あの後片付けは迷惑以外の何物でもありませんもの)。
卑近な例を挙げましたが、かような臨界点の認識にうってつけのスポーツがあります。それこそまさに「筋トレ」であります。
「ヤバいよヤバいよ」という声が聞こえるか
筋トレとは、「毎回限界と向き合う」ことにほかなりません。デッドリフト160キロがマックスの私は、170キロを挙げようとすると腰が悲鳴を上げはじめます。その悲鳴に耳を傾けてみると、「待ってくれ、お前は体重69キロだろ? お前の体重より100キロも重いもの、普通に考えて挙げられるわけねえだろ。ヤバいよヤバいよ」と芸人・出川哲郎さんみたいな声が聞こえてくるのです。
実際にこれまで、無茶な重さに挑戦して2回ほどぎっくり腰をやってしまった経験があるので、こうした内なる声にはかなり敏感になっています。
限界を知るということは、「足るを知る」ことにもつながります。限界点は最高点でもあるからです。たとえばベンチプレスの場合、私の限界は120キロですから、それ以上の重さに挑むときには、トレーナーやジム仲間に補助をお願いするようにしています。
ベンチプレスを無理な重量で行うと、のど元にバーベルが落下することになり、最悪の場合は死に至ります。自分も筋トレをはじめたばかりの頃、60キロバーベルを挙げられなくなってしまい、近くにいる年配の方に助けを求めたことがありました。
すると、その方は片手で楽々と60キロのバーベルを挙げてしまい驚いたものです。それはさておき、これこそまさに、限界を察して素直にSOSを発したからこそ、大きな迷惑を未然に防ぐことができた好例だったと言えるでしょう。