人は、失言から失脚する
いやはや、日本維新の会を除名された衆院議員の丸山穂高氏が世間をにぎわせてますな。おなじく日本維新の会から参院選比例代表候補としての公認予定を取り消されそうなフリーアナウンサーの長谷川豊氏、そしてこれまた五輪担当大臣を辞任することになった自民党衆院議員の桜田義孝氏。
いずれも失言からの失脚であります。こうした事態を受けて、自民党では「失言防止マニュアル」なるものを配布し、来るべき選挙に向けて「言葉」に細心の注意を図ろうと必死であります。
言葉は人を「狂喜」させますが、使い方をまちがえると「凶器」にもなります。そして、たとえ後から撤回しようが、一度発せられた言葉は消えません。要するに撤回というのは発信者側のわがままにすぎないのです。受信者側がその言葉によって受けた心の傷は、一生消えないのですから。
言葉を生業(なりわい)とする落語の世界においても、これは重要な問題です。落語家志望の若者の前に立ちはだかる「前座修行」というシステムでは、入門と同時に師匠からその言動を逐一チェックされる厳しい期間がはじまります。入門すればいきなり大好きな落語がしゃべれるわけではないのです。
まずは前座からはじまり、二ツ目に昇進してやっと落語家としてカウントされて、最後は弟子を取ってもいい真打ちというランクになります。つまり落語家は完全なる階級社会なのです。
立川談志の言葉に対する皮膚感覚
立川談志はとりわけ厳しく、「俺は学校の先生じゃないから小言でアピールするだけだ」と宣言し、常に弟子たちの細かな言葉遣いに目を光らせていたものです。
思い返せば私自身もしくじりの連続でした。たとえばある雨の日に、なかなかタクシーが捕まえられず、「師匠、タクシーが捕まりません」と伝えると、「おまえの言い訳なんか聞いてない。捕まえればいいんだ!」と言われます。
そしてやっとの思いで捕まえたタクシーに乗って帰る際、「お先に失礼します」と言うと、今度は「失礼しますじゃない! 失礼させていただきますだ!」とさらなる小言が待ちかまえていました。まるで「お前はこんなきつい思いをしてまで落語家になりたいのか」と、日々洗礼を受けているような期間でした。
あの頃は、身も心もズタズタになるしかなかったのですが、いま落ち着いて談志の立場で吟味してみますと、「おまえの言葉を意地悪く解釈するやつがいたら、こうなるぞ!」というメッセージでもあったのでしょう。つまり、「自分の言葉が他者にどのような印象を与えるか」という、マンツーマントレーニングを天下の立川談志から施された修行期間だったのです。
考えてみれば、「言葉の影響力」というものを談志の天才的皮膚感覚を通じて学べるなんて、落語家として一番の訓練だったといえます。