7月上旬に起きた西日本豪雨災害。愛媛県や広島県では、決壊を防ぐためのダムの緊急放流によって下流域の住民に大きな被害が出たが、放流決定のプロセスや伝達方法に関して強い非難の声が上がっている。問題はどこに? プレジデント社の公式メールマガジン「橋下徹の『問題解決の授業』」(8月28日配信)より、抜粋記事をお届けします――。

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最悪を避けるための究極の判断「緊急放流」

※写真はイメージです(写真=iStock.com/nkurtzman)

今回の大豪雨においては、多くのダムが水量調整をしたようだ。豪雨によってダムの水位が上がることを予想して、事前にダムの水を抜いておく。豪雨によって水位が上がってくるにしたがって、ダムからの放流量を調整していく。放流しなければ、ダムは満水になるし、放流し過ぎるとダム下流の河川が氾濫してしまう。まさに調整の「技術」が必要なところだ。

そしてダムが満水になり、これ以上貯水できないとなれば、ダム決壊という最悪の状況を避けるために、ダムに入ってきた水量分をそのまま放流する。すなわち貯水を放棄する。たとえ下流域で河川の氾濫があったとしてもダム決壊を防ぐためだ。これを緊急放流という。

ダムの決壊という最悪の状況を避けるために、下流での河川氾濫というリスクを引き受ける。まさに究極の判断だ。

このような究極の判断は、河川管理ではよくあることだ。

例えば、関西の淀川流域で堤防決壊があると、淀川流域は大都市部なので被害が甚大なものになる。そこで淀川流域を守るために、上流部の人口の少ない田舎が犠牲にされる。

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大阪は、上流部の犠牲によって守られている。住民一人一人の命に優劣はない。そうであれば、なぜ大阪が守られ、上流部が犠牲になるのか。その根拠は単に「数」だけだ。大多数の命を守るために、少数の命を犠牲にする。命までとは言わず経済的な被害においても、大を守るために小を犠牲にする。

これは正義か不正義かの問題ではなく、きれいごとでない現実的な究極の判断だ。こういう判断を求められるのが政治であり、このことについて頭の中の抽象論で延々議論をし続けるのがインテリたちである。

今回の西日本大豪雨の際の緊急放流も同じような現実的な究極の判断だった。

緊急放流は、ダムの決壊を避けるために下流を犠牲にするというもの。愛媛県西予市では野村ダムが緊急放流し、下流域が浸水した。同県大洲市では鹿野川ダムが緊急放流し、下流域が浸水した。広島県東広島市の椋梨(むくなし)ダムが大規模放流して、下流域の三原市が浸水した。

そして、それぞれの浸水域で死者が出ている。

野村ダムと鹿野川ダムは国の管理。椋梨ダムは広島県の管理だが、管理者は全てルールに従った適切な放流だと主張している。下流域からは、その周知方法、すなわち危険情報の伝達方法に問題があったと非難の声が出ている。

あの状況での緊急放流や大規模放流は止むを得なかったのであろう。これは高度な治水管理技術のことでもあるので、素人的視点で簡単に批判はできない。もし今回の放流が悪いというなら、水量調整のルールの検証を技術的視点からしっかりとすべきである。